週刊少年ジャンプには、読者アンケート(本記事ではアンケートと呼称する)と打ち切りというシステムが存在する。
このシステム及び打ち切られた作品に対する世論などを筆者の私見を持って論じていきたい。
① アンケートと打ち切り
ジャンプには「一番面白かった作品は何か?」という問いに対し、読者が答えるアンケートが存在する。より細かく言うなら1位から3位まで選ぶ必要があり、感想を記載する項目もある。(記載しなくてもOK)
そしてこのアンケートの集計結果、単行本の売り上げなどを考慮して打ち切りや継続などの判断がなされる。無論、この2つが全てではないことは言うまでもない。他にも様々な要因があり、それらを編集部で議論したのちに打ち切りとその期間が決まる。
本記事ではアンケートがいくら入っていれば打ち切られないとか、単行本がどれだけ売れないと打ち切られるか(講談社の場合1週間以内の単行本の売り上げで決まるそうだが)などを検証しない。何故なら、我々読者からは知ることのできない基準が存在し、当然議論も見ることはできないため知る由もないからだ。
例えばSNSなどで「どの作品にアンケートを入れたか?」と集計してもその数字が実数値を反映しているとは限らないし、
(SNSの場合自分の興味のある投稿が閲覧されやすいので、one-pieceファンがこの集計をした場合、one-pieceファンの目に留まりやすく、集計に傾向が発生しやすい、アンケートを入れた人はハッシュタグを付ければ傾向は薄まるが、このような活動をする人はマイノリティなので、やはり正確性に欠ける)
集計上では得票数の多い作品が掲載順位が低かったり打ち切られたりするので、実質この個人が行なうSNS上の集計はそれほど信頼性が高いとは言えない。(無論、目安にはなる)
そのため本記事ではアンケートによる打ち切りに対する考察や検証などは行わない。何を論じるのかというと、このアンケートシステムが及ぼす影響や弊害、打ち切られた作品に対する世論、そもそもこのアンケートは適当性のあるものなのか?という部分を論じていきたい。
② アンケートで分かるもの
このアンケートは掲載されたその話が面白いかどうかの指標である。そのためこのアンケートによって分かるのは、
- どういう内容だと読者が面白いと思うのか?
- どういう内容だと詰まらないと思うのか?
- この漫画のどういう部分が好まれているのか?
- どんな内容だと票を得やすいのか?
- どんな内容だと票を得られないのか?
である。これ以外にもあるかもしれないがおよそこの5つに集約されるだろう。
勘のいい方は察していると思うが、これらは全て「掲載された話を読者がどう思うか?」という指標であって、「作品が面白い」というアンケートにはならないのだ。
このアンケートは週間連載を対象にしている。つまり、「今週、面白い漫画は何か?」という指標になってしまうのだ。言うまでもないが、漫画は毎週面白く描くなんてことは不可能である。無論、作者は毎週面白い話を描いているが、クライマックスの話とそれ以外とでは差が出てしまうのも事実だ。
「今週つまらない漫画」が「平均値だと面白い」や「単行本だと面白い」というのはザラにあるし、そういった「作品」単位での評価を、この週刊アンケートで測るのは不可能だと言うことは言うまでもあるまい。
漫画には派手なアクションシーンや、計算された伏線回収、感動的な叙情描写があるが、当然それがない話もある。章と章の間や、どうしても挟まなければならない説明描写などがそれにあたる。ある作品がクライマックスの時に、別の作品が説明回などの盛り上がりに欠ける話だった場合、その作品にはアンケートが入りにくい。要は「今週、面白い漫画」を問うているにもかかわらず、その評価は極めて相対的な影響を強く受けていると言える。
つまり、このアンケートでは派手なアクションシーンや、感動シーンなどは票を得やすく、説明回やアクションシーンの後の静かなシーンなどは票を得にくい。
これは言い換えると「どのような話が読者に好まれるか?」「どのような作劇が好まれるか?」「キャラの初登場シーンなどはどうすればいいか」などの指標になりえるといえる。逆を言えば面白い漫画を描く際の材料としての側面が強いのだ。もっと踏み込むと、「アンケートを取るためにはどうすればいいか?」というところに行きついてしまう。
③ アンケートの意義
そもそも何故、このアンケートというシステムが生まれたのか?
このアンケートというシステムはジャンプ創刊号から行なわれているジャンプの伝統だ。初代編集長・長野規氏から受け継がれた伝統であり、その理念は「読者が読みたい漫画を載せる」「競争原理の導入」であり、10週やって人気の出ないものは打ち切りというのもこの時期から決まっていたという。
1968年に創刊したジャンプだが、この時のジャンプはわずか10万部程度の発行部数であり、月2回の連載だった。加えて他社の大物漫画家を招くことができず、自力で漫画家を発掘し、育てる必要があった。そのため他社に先駆け「手塚賞」や「赤塚賞」を作り、新人漫画家が持ち込みに来やすい環境を整えた。
そこから生まれたのが永井豪先生や本宮ひろ志先生であり、当時少年漫画から団塊の青年誌になりつつあったマガジン/サンデーと異なり、小学校にアンケートを協力してもらい「友情・努力・勝利」という小学生から貰ったキーワードを打ち出し、少年層の獲得を全力で目指したのがジャンプだった。
(参考文献:「小汚い雑誌だった」、、、サンデー編集者から格下扱いされていた「ジャンプ」が”最強のマンガ誌”になれた理由)文春オンライン記者:伊藤和弘著 『「週刊少年マガジン」はどのようにして漫画の歴史を築き上げてきたのか?1959-2009』より抜粋
ここから分かるのは、
- 当時のジャンプは青年誌になりつつあったマガジン/サンデーとの差別化が必須だった
- 大物漫画家を招聘できなかった
- 新人漫画家を発掘し、育てる必要がった
上記の事情からアンケートが生まれた、いや生まざるを得なかったと筆者は考察する。すなわち、
- アンケートを取ることで、面白い漫画が残るという競争原理により新人漫画家と担当編集の育成につながる。←新人漫画家の発掘と育成
- アンケートを取る事で、読者の好み、盛り上がる話のパターン分析、面白くない漫画の条件の模索ができる。←新人漫画家の発掘と育成
- 10週やって打ち切りというシステムにより、早い段階で読者を惹きつける話やキャラを用意する必要がある。これはつまり、マガジン/サンデーには無いスピード感により、読者の脳に早期に「面白い」という快感を与える事で読者数を稼ぐことができる
このように、ジャンプのアンケートは言わばジャンプという雑誌の生存戦略であり、その生まれた経緯とアンケートシステムを鑑みても、「面白い漫画を載せる」というより、「面白い漫画を作る」という事に主題を置いていたことが分かる。
つまり、ジャンプのアンケートは「面白い漫画」を選別するより、「面白い漫画とは何か?」を理解するためのものに極めて近かったと言える。そしてそれは今日に至るまで続いている。その証拠にジャンプは週間連載になった今でも「今週面白かった漫画はなにか?」という題目でアンケートを募集しているからだ。
真に面白い漫画を選別するなら単行本の売り上げをもっと重視するとか、アンケートの推移を長期的に計測したり、全く新しいアンケートを追加で作るなりすればいい。例えば投票した理由を「面白いから」「応援しているから」「感動したから」など項目を作って選ぶのを必須にすれば、アンケートの信頼性も上がるだろう。(電子書籍に限るだけなら読者の負担は変わらないだろう。何故ならアンケートを入れるほど応援したい読者にとって好きな作品を応援するために追加でアンケートに答えるくらい苦にならないからだ)
これらの試みが試されることなく、いまだに半世紀前とあまり変わらない形態を取っているのは、伝統というのもあるだろうが、「競争原理によりジャンプは覇権を取った」という自負と、それによりこの「アンケートの時代遅れ」から目をそらしているかもしれないし、「今週、面白い漫画」を積み重ねれば「面白い漫画」になるという強い信念が存在しているようにも見える。あるいは創刊号から連綿と続く「面白い漫画を作る」ためのパターン分析という知的好奇心がまだ続いているのかもしれない。
④ アンケートを取るための漫画
当然だがアンケートで毎週1位を取れるという事は、それだけ多くの読者から面白いと思われていることに他ならない。それが積み重なれば一番面白い漫画になることは筆者も分かっている。生存バイアス的にアンケートを取れる漫画=面白い漫画という事に異論はない。
しかし、この「アンケートで票を取れなければ打ち切りに近づく」というシステムは以下の弊害を生み出す。
- アンケートを取る為の漫画
- 推し投票
- アンケートの形骸化
- 表現不協和
- 情報化する娯楽
これら5つの弊害は相互に関連しあっており、1つを論じるにあたって2つ目、3つ目の弊害についても語らずを得なくなるだろう。
① アンケートを取る為の漫画
そもそも論として、アンケートを取れれば打ち切られないのだから、作者としては可能な限りアンケートを取れるような漫画を描く事を意識する必要がある。それは言い換えると、「アンケートが取れそうなテーマ・ジャンル選び」から始まり、「アンケートが取れそうなキャラを作り」、「アンケートが取れそうなストーリーを作る」事に他ならない。
勿論、アンケートが取れる=面白いのだから、このロジックで正解だろう。実際、ドラゴンボール、スラムダンク、幽☆遊☆白書、ONE PIECEやNARUTO、BLEACH、鬼滅の刃、呪術廻戦、僕のヒーローアカデミアなどなどジャンプ作品が覇権を握った時代は長く続いているし、上記の作品だけでも世界レベルで文化を構築している。これらの影響力を加味すると、これらの漫画を作る礎となった「アンケートを取る為の漫画」を作る事が「面白い漫画」を作ることに繋がる事に異論はないだろう。
問題となるのは、「アンケートが役割を果たしていない」なら、この前提は崩れ去る事になる。わかりやすく言うと、「今のアンケートは面白い作品ではなく、推し作品の為のアンケートになっているのではないか?」という事だ。
② 推し投票
既に連載している作品や新連載を含めて、どんな作品にも一定数ファンが存在する。彼らの行動原理は単純だ。「打ち切られない為に推し作品に投票する」である。ファンが生まれている以上、その作品には長所があるのでアンケートが入る事に正当性はあるだろう。
だが、問題なのはファンは「今週の話は詰まらなかったけど、打ち切られない為に投票する」になっている事だ。これ即ち、「今週面白かった漫画はなにか?」というアンケートの問いを無視している形になる。
これは果たして創刊号当初のアンケートの理念に沿っていると言えるだろうか?
しかもこの行動原理は長く続いている作品に有利に働く。長期連載の作品はそれ故にファンの数も多い。アニメ化などされれば尚更である。従って「今週は面白くなかったけど、推しだからアンケート入れとこ」というファンの母数が多くなるのだ。
勿論、それだけ長期連載しているという事は「アンケートを取り続けた漫画」なので実力と言えば実力である。しかし、やはり新連載が既に連載している上位陣と比較した場合、不利になるのも事実である。
この事から新連載でファンの母数が少ない作品が圧倒的に不利だ。しかし、逆を言えばそんな中でアンケートが取れる作品は極めて優秀な作品とも言える。
③ アンケートの形骸化
ジャンプには推し作品にアンケートを入れる推し投票が存在する事は先に述べた通りであるが、それは以下の事を意味する。「アンケートは面白い漫画を知るためのもの」から、「推しの漫画を応援するアンケート」に変容していることである。
今週の話が面白くても面白くなくても、ファンは打ち切られない為に推し作品に投票する。従って純粋に「今週面白い作品」にどれだけアンケートが入ってるかが不明瞭となる。これはアンケートの役割を果たしてないと言えるだろう。いや、正確に言えば純度が落ちていると言える。要するに今のジャンプのアンケートは「今週、面白い漫画」を集計しているのではなく、「今週の推しは何か?」という人気投票になっているのではないだろうか?
④ 表現不協和
先ほども軽く触れたが、「アンケートによる打ち切り」というシステムがある以上、作者は「描きたいこと」や「表現したいこと」や「伝えたいこと」より、「アンケートを取る」ことに注力しなければならない。特にテーマには大きな影響を及ぼすだろう。要するに、「内容が面白い」ものであっても、「地味なテーマ」だとアンケートを取りにくいのだ。
つまり、作者が「描きたいもの」や「表現したいもの」、「伝えたいもの」が地味な題材やニッチなジャンル、「その分野に精通している者しか共感できないもの」だったりすると、それだけでジャンプで連載を継続する事が困難となる。何故なら例え面白かったとしても、十分なアンケートを取る事ができないからだ。
最近のジャンプは挑戦的な新連載が多い。例を挙げるとゴルフを題材にした「グリーン・グリーン・グリーンズ」やフィギアスケートを題材にした「ツーオン・アイス」、劇画風な作画でホラーに挑戦した「ディア・アネモネ」などが、バトルものやファンタジーものが多いジャンプにおいて異彩を放つ新連載だった。
特に「グリーン・グリーン・グリーンズ」や「ツーオン・アイス」は作品としては極めて高いクオリティの作品であり、作品としても十分面白いものではあった。しかし、ゴルフを通したスポーツの向き合い方やフィギアスケートの性別的な問題についてどれほどの人が関心があり、どれほどの人が購読し、どれほどの人がそれに共感し、どれほどの人がアンケートを入れるだろうか?
つまり、「アンケート」を「打ち切り」の材料にしていることにより、「大衆的な題材でない作品」や「社会風刺的な作品」や、「ジャンプの読者層と合わない作品」は、例え作品が面白くてもアンケートを取れないせいで打ち切られやすいのだ。これは表現としての多様性を放棄している事であり、逆説的に作品としてのクオリティで評価されにくい構造となる。
アンケートが「今週、面白い漫画」をきちんと評価している時代であれば問題ない。しかし、時代はジャンプ創刊号の頃とまるで違う。
現実問題として今のアンケートは前述の通り形骸化している部分も否定できない。このアンケートが「今週、面白い作品」を対象としておきながら、投票している者は「面白い作品に入れる」人もいれば「推しだから入れる」者もいることにより、アンケートの信頼性が下がっている。
つまり、「今週、面白い作品」を知る為にアンケートを行なっているのに、「今週、面白い作品」の指標になり得ていないのだ。アンケートがきちんと「今週、面白い作品」を反映していないにも関わらず、打ち切りの材料になってしまっている為、作者は自分の「描きたいもの」を歪めたりしながらアンケートを取る為に自分の作品を描き始める。
このような過程を経て掲載される作品に、作者の「本当の想い」や「伝えたい想い」が反映されるだろうか?されているだろうか?
ここが表現の不協和になっていると思う。つまり、本来は作者が「表現したいこと」「描きたいこと」「伝えたいこと」を先に漫画にして、それをアンケートや単行本の売り上げという形で評価を得て貰うはずが、「アンケートによる打ち切り」というシステムのせいで、「アンケートを取るために漫画を描く」という本末転倒な逆転現象が起きているのだ。
楽曲や絵画などを想像して欲しい。アーティストは自分の作りたい音楽を作り、描きたい絵を描く。それに対して楽曲ならCDの売り上げ枚数という形で価値が定まる。絵画なら数億円という値がつく事で評価される。
このように、本来表現や芸術というものは、創作者の「表現したいこと」が先にあって、それに対して価値がつくのである。
勿論、音楽プロデューサーによって本来の楽曲とは違う形になったりする。しかし、それはアーティストとプロデューサーという製作陣側で協議されているのであって、決してリスナーの評価や要望に忖度しているわけではない。無論流行りの楽曲に寄せるというのは当然あるが、それでもリスナーからアンケートを取って、それによって楽曲を作るなんて言う事はしない。
要するにジャンプのアンケートは本来の芸術の評価システムと真っ向から対立するシステムなのだ。「アンケートによって打ち切られる」と言う事は、「作者が表現したい事を表現する」のではなく、「読者が読みたいストーリーを描く」という形にすり替わることに他ならない。しかも、そのアンケートも作品単位ではなく週間単位であるし、アンケートの信頼性も「アンケートによる打ち切り」というシステムのせいで、「今週、面白くなかったけど打ち切られたくないからアンケートを入れる」という現象が起こる。要するにアンケートとしての信頼性が下がる
にも関わらず、読者にアンケートという形で忖度してしまっている、いや、打ち切りによって忖度させられている為、作者が本来描きたいストーリーが十分表現しきれない。このシステムのせいで本来然るべきタイミングで回収する為に貼っておいた伏線を無理な形で回収する事になったり、逆に伏線が残る事で訳のわからない作品になったまま終わってしまう事が多い。本来、短編ながら名作で終われる漫画が駄作で終わっていった作品の何と多い事や。
「ニッチなジャンルを取り上げたい」「このジャンルのこういう問題点を作品を通して表現したい」など、作者の表現したい、扱いたい思いから、作者は漫画のテーマを決めて連載をしていく。
作者の努力により高いクオリティの漫画に仕上がるが、連載の継続条件の1つが「アンケートを取る事」である場合、ニッチなジャンルは読者数が少なくなるのでアンケートが入りにくい。これが面白いのに打ち切られる漫画となってしまう理由なのだ。
当然、作者も担当編集も打ち切られたくない為、アンケートを取る努力をするが、その結果本来表現したい事が表現しきれなかったり、中途半端に終わったりする。
連載の継続をアンケートを取る=読者に忖度するというシステムに立脚する限り、挑戦的なテーマはジャンプでは現れにくいし、連載する方も「描きたい漫画を描く」のではなく、「アンケートを取るために漫画を描く」という気分になる。
それだけではない。このシステムのせいで、「描きたいモノを描く」から「読者に忖度したもの描く」になってしまいがちだ。その結果、アンケートを取るために「続きが気になる形で終わる」という、一種のテンプレ的作画でその週の話が終わる。このことから、週間の話の終わり方や連載している作品も似たり寄ったりな作品が多くなってしまう。
何なら連載する作品すらも「これで勝負したいんだ!」ではなく「ジャンプらしいものを持ってこい!」になってしまう。ジャンプも商業誌であるため当然といえば当然なのだが、これは果たして「表現」や「創作物」として正しい形だろうか?この状況が作者の表現したい事を自由に表現できない、表現不協和というジレンマを作り出しているように思える。
表現というものは誰にも忖度する事なく、自分の想像を具現化する事を指し、それに対して世間が評価するというのが本来の形である。その部分を半ば歪めているのが今の「アンケートにより打ち切り」というシステムなのではないだろうか?
⑤ 情報化する娯楽
ここからは、先ほどの「アンケートによる打ち切り」システムの弊害の5つ目、「情報化する娯楽」について論じていく。
この項目を上述のような小項目ではなく、大項目として論じていくには理由がある。それは本記事の題目であるジャンプのアンケート無意味説の根幹に関わるものだからだ。
現代人はせっかちが増えているらしい。それによってどのような社会となり、価値観がどのように変わっていき、その結果どんな状態になっているのかを論じた記事が以下の記事である。
上記の記事では論じていなかったが、このせっかちになる事で「娯楽の楽しみ方が変わった」ことがジャンプのアンケートに大きな影響を及ぼしているように思う。
例えば呪術廻戦。この作品を週間連載で追っている人は分かると思うが、この作品は非常にテンポが良い。いや早すぎる。近いところでいうと、宿儺VS五条に至るまでのテンポの速さは尋常ではなかった。筆者を含めた考察者が口をそろえて「もう戦うの?!」と驚いていたことを今でも覚えている。
通常、作中のラスボス的な存在に味方側の最高戦力が挑む前に1か月の猶予期間が存在する場合、1話~2話分ほど主人公サイドの作戦会議や修行描写などを挟むだろう。しかし、呪術廻戦にはそれがない。主人公の修行描写など、わずか2ページ、それも6コマしかない。味方側の作戦会議と呼べるものはわずか1ページの6コマ、甘く数えるなら追加で2ページ分の2コマしかない。決戦前の話をたったの11ページに収め、猶予期間の1か月をすっ飛ばしてナレーションで決戦当日のアナウンスを入れて宿儺VS五条が開戦する。これらは全て1つの話の中で行なっている。驚くべきスピード感である。
この「修行描写を飛ばす」、「準備描写や作戦会議などを飛ばす」というのはこの呪術廻戦から際立って行なわれ始めたように思える。それ以前の作品、ドラゴンボールやトリコ、BLEACH、NARUTO、HUNTER×HUNTERなどはむしろ修行描写をメインに描く時期もあったくらいだ。それをテンポが悪いと割り切って切り捨て、「戦いの中で強くなる」あるいは「強くなるのに必要なのは、修行ではなくちょっとした発想の切り替えなのだ」ということを前面に押し出している。いや、そうすることで修行描写をカットすることに成功したのだ。そのため物語がダレることなくキャラの成長を表現できるし、理由付けもできて、さくさく物語が進む。
問題はなぜこの手法を取る必要があったのか?ということだ。従来までの「修行描写をある程度描く」でも問題なかったはずだ。しかし、この手法を編み出す必要があるほどテンポを意識しなければならない事情があった。それがせっかちが増えているということだ。
動画を1.5倍速で見る人が増えているように、楽曲のイントロが昭和から平成までは平均17秒あったのが、2021年以降急激に短くなり、今では平均6.3秒になっているように、今の人は「早くサビを聴きたい!」や「早く結論を知りたい!」や「早く物語が進んで欲しい!」と思う人が増えているのだ。それがアンケートにも如実に表れている。
呪術廻戦も「呪胎戴天」という序盤の山場に差し掛かる前は打ち切りが視野に入っていたそうだ。その為、序盤の山場である「呪胎戴天」を早めに掲載したと作者がインタビューで答えている。だが、これがそもそもおかしい。「呪胎戴天」は単行本1巻の最終話付近で掲載された話だ。つまり、この時点で呪術廻戦は序盤も序盤だったのにも関わらず、打ち切りになりそうになっているのだ。
要するに、従来までの連載のスピード感覚だと打ち切られやすいのだ。とにかく魅力的なキャラを、盛り上がるストーリーを、それこそ4話5話あたりで掲載しないと打ち切りが一気に近づく。
呪術廻戦の後輩漫画である「カグラバチ」も非常にテンポの良い漫画である。そして「カグラバチ」の兄弟漫画である「魔々勇々」はこのテンポに関しては対照的な作品である。「魔々勇々」は非常に世界観を作りこんでいる作品であり、叙情描写が特徴的な作品だが、呪術廻戦や「カグラバチ」と異なり、テンポはあまり良くなかった。無論、30年前のドラゴンボールに比べればテンポはいいが上記の作品に比べればテンポは悪い。
「カグラバチ」は双城という魅力的な敵キャラがわずか5話で登場したが、「魔々勇々」は作風的に複数の敵キャラが登場する作品なので、一人一人のインパクトが薄くなり、そこまで強めのキャラを登場させることはできなかった。結果、「魔々勇々」は打ち切られたが「カグラバチ」は継続している。
*念のため断っておくが筆者は「魔々勇々」を貶めているわけではない。何なら「魔々勇々」の考察動画を出すほど推しの作品であることを描き記しておく。
これらのように読者はとにかく「早く快楽が欲しい」のだ。そのため序盤で山場を持ってくるか、魅力的なキャラを登場させなければアンケートが取れない。もはやドラゴンボールやワンピースのテンポ感で世界観を広げていくことなどできない。キャラを掘り下げることもできない。
これらは「娯楽の情報化」と言えるのではないだろうか?人は情報というものは早く知りたいと考える生き物だ。加えて欠落なく正確に欲しい。そして簡潔で分かりやすくなければならない。そう、今の漫画に求められ、逆に批判される作品は今あげたものが足りてないと批判されているのだ。
「情報」とは知的好奇心を埋める快楽である。「この疑問に関する解答が知りたい」というのは知的好奇心を満たしたいという欲求に他ならない。
「情報」とは「知りたい」「気になる」という欲望を手っ取り早く満たすものである。この短期的な快楽の摂取が続くと人はどんどん「情報」という「快楽」を求めるスピードが増していく。
即ち、「早く」「テンポよく」「細かく描写されてて」「盛り上がるストーリーかキャラ」という快楽を求めているのだ。この行動心理が、最近の若者が映画を見る際にネタバレを見たうえで行くと言う事にも通ずる。要は「娯楽の楽しみ方が情報を得る時の行動」と似ているのだ。
本来、映画や音楽というのはクライマックスに至るまでの過程やイントロも含めて楽しむものであった。要は一番盛り上がる部分以外の所にこそ創作者の伝えたいことや、真意があり、そこを含めて楽しむのが娯楽であった。要は「無駄」な部分を楽しむのが娯楽だったのだ。
それが、音楽で言えば「サビ」映画で言うと「結末」、漫画で言うと「バトルシーン」や「魅力的なキャラ」を早く摂取したくなっている。それらを摂取する前の「イントロ」や「起承転」などは無駄なものとして切り捨てられている。この「快楽」を求める速度が上がり続けることで、新連載は極めて速いテンポ感が求められる。そのスピード感は、30年前のドラゴンボールと現代のカグラバチや呪術廻戦などを見比べれば一目瞭然だろう。今の人が、ドラゴンボールの亀仙人の修行シーンなどを週間連載で見ようものなら、あくびが出てしまうだろう。
しかし、ドラゴンボールが歴史を作った漫画であることは疑いようがない。現代に「ドラゴンボール」が連載していても「ドラゴンボール」ほどの成功を治める前に打ち切られてしまうだろう。もしかすると今まで打ち切られた漫画も「ドラゴンボール」に成り得た漫画があったかもしれない。序盤に「快楽」を早く求め、序盤の世界観の作りこみなどを無駄と切り捨てた結果、「ドラゴンボール」に成れなかった「ドラゴンボール」があったと考えたら、本当に損をしているのは我々読者ではないだろうか?
このように、現代では「娯楽」は「情報」に近いものになり、その結果情報と同じように早く、正確に、結末を提供することが求められる。実際、YouTubeでも30分の動画よりショート動画のほうが再生回数が多いように、とにかく読者の支持を得るにはスピード感が重要だろう。そうなると従来のような世界観を作りこんだり、箸休め的な回を挟む余裕がなくなり、世界観も狭まり、キャラの厚みも減り、キャラたちの目的意識もいまいち強く描くことができない。つまり、創作物がどんどん単純化、悪く言えば幼稚化していくのだ。
何故なら読者が幼稚化しているから。それを直接的に反映する「アンケートによる打ち切り」というシステムを採用し続ける限りこの作品の幼稚化は、幼稚化した読者によって今後も加速し続けるだろう。
他にも読者が幼稚化している根拠として「省略に耐えられない」ことがあげられる。昨今の漫画では、今進んでいる話から、急に過去回想に入るとそれが過去回想と捉えることができない読者が増えているそうだ。それだけなら深刻に感じないかもしれないが、フェードアウトしながら別の場面に切り替わることも耐えられないそうだ。要するに何故場面が切り替わったのか、何故過去回想に入ったのか、という事を説明しなければ理解されないというのである。本来そういったものはキャラのセリフや表情、前後の物語の流れなど様々な要素を複合的に読むことで従来は理解してもらえていた。それが今や成り立たなくなっている。
テンポ感を求められているのに、テンポよく必要な省略をすると「訳わからん」と言われてしまう。まるで後出しジャンケンのような理不尽さである。何故、この省略が許容できないのかというと、「娯楽」が「情報化」しているからだ。「情報」なので「省略」や「欠落」が許されない。
最近で言うと、呪術廻戦における宿儺VS五条の決着シーンがまさにこれである。先週の話で「五条の勝ちだ」から次の週では一切の戦闘描写がないまま切断されて死亡した五条悟が描かれた。人気キャラである五条の死も相まってこの描写は徹底的にたたかれた。
確かに筆者も「え?」と驚いたし、どんな状況で五条が切断されたのか描いてほしかった。しかし、あれはあれで非常に美しい回だったし、あれ以上美しい五条の散り際を描くことは不可能だっただろう。あそこで戦闘描写を挟んだところを想像すると、戦闘描写が蛇足に感じてしまう。省略したからこそあの美しさに仕上がっているのだ。
より分かりやすい例が東京リベンジャーズだろう。物語の最終章、再び沢山のタイムリープをする必要が生まれたが、その大部分は悉く省略された。その際も省略に対して不満が爆発していたが、想像してほしい。この時の沢山のタイムリープの殆どは主人公が既に体験してきたタイムリープであり、2度目のタイムリープをしているに過ぎない。我々が読んできた主人公のタイムリープを、全く同じタイムリープをもう一度描くことに何の意味があるのだろう。急に過去回想に入ったり、場面転換するのと異なり、これは必要な省略なのだ。
これらが許容できないのは「娯楽」が「情報化」していることに他ならない。「情報」だから早く欲しいし、欠落なく欲しくなる。そのくせテンポよく進めないと文句が来る。徹底描写へのインフレが起きているのに、スピード感は早くしろという。時短が求められる時代なのに、省略を手抜きと判断するこの矛盾。これらがアンケートに及ぼしている影響は甚大である。
ただでさえジャンプのアンケートは推し投票になっているのに、テンポ感や徹底描写も必要とされている。そしてそれに応えなければならないのが「アンケートによる打ち切り」というシステムだ。このような雁字搦めのなかで作られる作品が果たして本当に作者の作りたい作品に仕上がるだろうか?
視聴媒体の変化により倍速再生が可能となった。SNSにより短く正確な情報が一度に大量に摂取できるようになった。これらがもたらしたものはタイパ至上主義である。その結果、人々は高速で望むものを手に入れられないと不満を抱くようになった。それは様々な媒体で噴出している。楽曲のイントロが短くなってるように、ショート動画が再生されるように、動画を倍速視聴するように、人々は「早く」「快楽」を満たしたがっている。
要するに、人々が「娯楽」を「情報」として「高速」で「消費」することで、過去作品のテンポ感が「ダレている」と感じるようになり、演出上必要な「省略」は、「情報として欠落」していると無意識に処理されて「批判」の対象にされてしまう。このような人々が入れるアンケートを取り続けるには抜本的な描写改革が必要だろう。それで成功したのが呪術廻戦であり、後輩漫画のカグラバチだ。
しかし、今後ワンピースやドラゴンボールほどの長編漫画が新たに生まれることはないだろう。何故ならタイパ至上主義により長編なんて読んでられないからだ。アニメで倍速視聴をされるまで漫画好きの中でしか話題にならないだろう。タイパ至上主義とそれを可能にするサービスが存在する限り、歴史に残るような長編漫画は生まれないと断言できる。
始末の悪いことに、これらアニメすらも現在は無料視聴できるようになっている。例えば、お金を払って買った漫画なら面白くなくても一応最後まで読もうとするだろう。(実際に最後まで読むかは別として)だが無料だった場合、即座に読むのを辞めてしまうだろう。つまり、有料の場合はお金がもったいないと感じ、無料の場合は時間がもったいないと感じる。ただでさえ、スピード感を求められているのに、このような構造的な問題によってもはや過去のスピード感に世界が戻ることなんてあり得ないだろう。
そしてドラゴンボールやワンピースが世界的な漫画となった要因である世界観の作りこみやキャラの掘り下げなどは、今後どんどん淘汰されるだろう。何故なら「ダレる」からだ。「情報」として「娯楽」を「消費」しているため、世界観やキャラの掘り下げなどは「必要な情報」として「認識」されない。タイパ至上主義者にとって、それらの要素はローディング画面のアニメーションくらいにしか思われていないからだ。
キャラなどは初登場の印象でキャラクター像が決まり、それ以降の様々なセリフや表情や役割を与えて肉付けしても、その初登場の印象が更新されない。
その最たる例が呪術廻戦における「日下部優しい問題」である。彼も初登場時は生徒が命をかけて戦う中、教師である彼は逃げ回っていた。そこでタイパ至上主義者たちの印象は決定的になり、その後の彼の妹想いの描写や恩師への恩返し、ラスボス戦への向き合い方など、様々な描写で何度も日下部の本当の人間像が更新されているのに、いまだに「逃げ回る奴」扱いされている。
それを象徴するように読者や視聴者の想像に任せるエンディングの娯楽はどんどん減っている。それどころか批判すらされる。今の時代に「インセプション」(2010年に公開されたSF映画。他人の脳に入ってスパイ活動を行なう。)なんてやろうものなら返金騒動となるだろう。つまり、「読者の想像に任せる」ではなく「創作者の真意を聞かせろ」ということなのだ。これも「娯楽が情報化」しているから起きていると言える。本当に娯楽として咀嚼しているなら、「想像に任せる」が一番うま味が染み出すところだから、不満ではなく称賛されるからだ。
質が悪いのはこのように「創作者の真意を聞かせろ、読者に丸投げするな」という主張は「創作者の真意を聞かせろ!俺がジャッジしてやるから!」と言っていることに等しい。何故なら創作者の真意を求める連中は、作品に対して自分では何も考えないくせに、「答え」だけを求めているからだ。もし、本当に自分なりの作品論を求めるならそれは「創作者の解釈と違うかもしれないけど自分はこう感じた」と論理的に思考して整理できるはずである。
そうではなく創作者の真意を求めるのは娯楽を咀嚼しているのではなく、情報として消費しているからだ。そしてその情報が消費するに値するか、もっというなら「俺がその情報を正しいかジャッジするからお前の真意を先に示せ」と言っていると言い換えてもいい。
このようにタイパ至上主義により、あらゆる事柄が「情報」として「消費」されていくに従い、人々が「単純化」「幼稚化」している。
よくSNSでバズるのは誰かの作品論だ。Twitterで「誰か」が「分かりやすく」「欠落なく」「納得感のある」「感想」や「作品論」を発信すると「バズる」。それは、「娯楽」を「情報」として「消費」しているため、自身の頭で感想や考察を持てなくなっているからだ。要は誰かが解説してくれないと自分の感想や考察すらまともに持てないのだ。永遠に「情報」の「受け取り手」である。
⑥ 無駄を楽しむ
こんなことを言うと批難されるかもしれないが、スポーツはただの暇つぶしである。もし生きるのに朝から晩まで働かなければならず、休みもなければ人はスポーツなんてする暇はない。仕事、家事、行政など生活に直結するもの以外は全て暇つぶしなのである。
これはスポーツに限らず、映画や音楽、釣りやドライブ、読書やゲームなど、ありとあらゆるものに言える。それらに熱中するのはなぜか?熱中しないまでも幸せや心の豊かさを感じるのはなぜか?
それはそこから「何か」を得られているからだ。スポーツであれば勝利だろうし、映画や音楽で言えば感動だろう。つまり、人々は趣味という暇つぶしからそれぞれの何らかの価値を見出しているのだ。
例えばYouTubeの動画をみるのもそこから「知らない知識を仕入れたい」や「今の自分に寄り添う意見を聞きたい」や「面白いものを見たい」など様々な動機がある。しかし、それらは暇だからこそ視聴している、視聴できるのだ。
何が言いたいかというと、我々の行うことの殆どは無駄なのだ。スポーツもたまたま経済効果があったりするから社会的価値があるが、それがなければ無駄であるし、ひとたび戦争でも始まればスポーツをする暇もなく、従って感動や記録も生まれない。人が行なう行動の殆どは大局的に見れば「全て暇を潰すために無駄な事する」と言い切ってしまえる。
だからこそ、そこに価値を見出すことが重要なのだ。無駄なことに意味を持たせる、意味を見出す、価値を感じる。その思考行動にこそ意味があるのだ。
筆者が動画1.5倍速視聴する人に対していつも疑問に思うのはここなのだ。本来、暇を潰すために動画を視聴しているのに何故、早送りなんてする必要がある?人が喋っている時の「間」や声のトーンなど、通常速だからこそ伝わる感動や想いがあるのに、それを不自然に歪めてまで沢山の動画を視聴することに何の意味があるのだろう?
こんなこと言うと「早く見た方がたくさん動画を見れるじゃん」と反論されるだろう。だとしたら先ほど論じた「娯楽が情報化」していることの証明となる。何故なら、早送りするという事は、早く動画の趣旨や結論を得て、次の動画を視聴し、また早く趣旨や結論を得ることだからだ。それは一本の動画を楽しむのではなく、複数の動画を楽しむことであり、次第に感動や共感や救済ではなく、「感動っぽい何かを与えてくれる情報を摂取している」ことになる。
要は結論を求め過ぎなのだ。感動や共感、救済などはその結論も大事なのだが、結論にたどり着く過程にこそ大きな価値があるのだ。動画を倍速で見る人は恐らく「結論を知れば自分は救われる」「自分は満足できる」という深層心理があるのだろう。だから結論にしか価値を見出せなくなっている。そこに至るまでの「無駄なプロセス」を楽しむことができないのだ。「倍速で見てても過程を見てるんだからいいじゃん」という反論もあるだろう。それはその通りなのだが筆者が言いたいのはそこではない。そもそもが結論に価値を見出してるからこそそれまでの過程を楽しめなくなってるんじゃないか?ということだ。
要は無駄に動画をみてもいいのだ。限られた時間で一本の動画しか見れなくていいのだ。だって一本の動画をゆっくり楽しむのも、早送りで沢山の動画を楽しむのも、一時間という時間の暇を潰せるからだ。ゆっくり見る人は深く楽しむタイプであり、たくさん見たがる人は情報として満足したい人である。ともに同じ一時間を消費しているに過ぎない。であるならば、一本をゆっくり見て自分なりの感想や考察や作品論を持つ方が豊ではないか。あくせく働いて心が消耗するより、単純な肉体労働で「今日も頑張ったな~」といって冷えたジュースを飲む。こちらの方が豊かではないか。
どうせ暇を潰すために動画なり漫画なり映画なりスポーツをするのだ。それならばその暇つぶしをとことん楽しんだ方がいい。一定時間内に沢山の動画をみて沢山の情報や快楽を得るのもいいが、そこから「情報」や「結果」以外のものを得た方がいいではないか。暇つぶしを楽しむ方がいい。暇を潰すために早送りで沢山の情報を摂取するのもいいが、本来暇というのはゆったり潰すものであり、あくせくと効率よく潰すものではない。暇を潰すためにあくせくと早送りで画面にくぎ付けになりながら沢山の情報を消費するのは本末転倒である。もはや動画にいいように使われているとしか思えない。結局、「娯楽」を「情報」として「消費」した結果、「情報」を自分なりに「咀嚼」することを忘れているのだ。大量の情報にあてられて脳が疲れているのだ。
⑦ タイパ至上主義とアンケート
ここまでで、アンケートが形骸化していることと、タイパ至上主義なるものがどのような形で「娯楽」を「消費」しているかわかっていただけたと思う。そしてそれらが漫画にどのような影響を与えているのかも論じてきた。
ここまでを一旦まとめると、
- アンケートは推し投票の一面もある
- ジャンプ的なジャンルでなければアンケートは入りにくい
- 即ち多様性と表現力の低下である
- 視聴媒体とサービスの変化により「娯楽」が「情報化」し「咀嚼」が「消費」に変わった
- これにより、「情報」を「消費」する速度の「高速化」が進み、読者が修行シーンや掘り下げ回、世界観設定などに耐えられなくなった
- 加えて「娯楽」が「情報化」し「消費」に変わったことで「必要な省略」に耐えられなくなった
- 「省略」に耐えられなくなったことで、前回の続きから話が続かないと「話をすっ飛ばした」や逆に「尺稼ぎしてる」など揶揄される
- このようにアンケートという形で読者に忖度し続ける限り、表現が作品として世に出る前の段階で、全ての読者のテンポ感を満足させ、興奮を与え、作劇場必要な省略を一切せず、それでいて読者の感想ではなく作者なりの回答を、誰一人不満を持たせることなく、発信しなければならない。それが今のジャンプなのだ。
⑧ 結論
結論から言うとジャンプのアンケートは無意味ではない。記事のタイトルと真逆のことを言っているが、客観的に見るとやはりジャンプで連載されている漫画はクオリティは高く、新人漫画家のスキルの向上などはジャンプでしか見れないものも多い。それは週刊誌の売り上げや、世間的な影響力を見ても一目瞭然だろう。
しかし、最近はそのジャンプ帝国にも陰りが見える。現在ジャンプは2024年36・37合併号まで出ているが、ワンピース、呪術廻戦、ヒロアカが看板漫画となっている。どう見ても誌面が弱い。一昔前の、ワンピ、NARUTO、BLEACH、トリコ、銀魂、こち亀、ハンタ、などなどが連載していた時期と見比べても明らかに弱い。それは筆者だけでなくSNSを開けばその意見が多数派と言っていい。しかもヒロアカは完結し、呪術廻戦も今年中に終わる。つまり、看板漫画が一気に減るのだ。現在、新たに看板漫画と呼べる漫画はサカモトデイズとカグラバチくらいだろう。あとはアオハコやあかねがそれに準ずる形となるだろうが、それは看板漫画が引退したからこそであり、ヒロアカや呪術廻戦やワンピースを超えたわけではない。(個人的にカグラバチもサカモトデイズも十分看板漫画だとは思うが)
なぜ、このように誌面が弱くなっているのか?それは今のアンケートの形と、それに立脚する打ち切りシステムが時代に即していないからだ。
これまでで散々論じたように、アンケートは推し投票化し、純度が下がっている。アンケートが意味を持つには作品に付き合い続ける人がいなければならないが、タイパ至上主義により、掘り下げ回や世界観設定を描く回、時間軸をずらした伏線回収回や、伏線を張る回などに、読者の方が耐えられなくなっている。
極めつけはSNSの普及だ。今までは一部の極端なタイパ至上主義者たちの意見は日の目を見ることはなかった。しかし、今はSNSのせいで簡単に批判することができるようになり、そこにインプレ稼ぎまで加わっている。従ってマイノリティな意見がマイノリティによって過剰に同調されることで注目を集め、注目を集めることでインプレゾンビが湧き、更に注目される事になる。そうなると、それが多数派の意見のように見えてくるのだ。それによってサイレントマジョリティーの一部がその意見に引っ張られることで、作品を叩いたり、読まなくなったりする人が増えている。ただでさえアンケートの純度が疑わしいのに、アンケートを入れる人々の考え方や価値観が、もはや「娯楽」を楽しむものとかけ離れているのだ。
だが、忘れてはならない。そのように声を荒げて自分の意見を振り回す人ほど少数派である事を。学校のクラスを思い浮かべれば理解できるだろう。大体クラスで騒がしい生徒は数人であり、大多数は大人しいのだ。大人しいが故に少数のうるさい生徒が目立ってしまう。理屈はアレと一緒である。現在のsnsにおいて批判的な意見を強い言葉で発信する人は、自分の感情を整理できない人達か、インプレ稼ぎが狙いの乞食なのだ。このような意見に惑わされてはならない。彼らが多数派になる事はない。
そうやってアンケートと読者の質と純度を下げた結果、今のわがままな読者についていける作家や作品が現れなくなっているのだ。その対策として大物漫画家を招聘する試みが現在試されているが、お世辞にも成功しているとは言えない。
この大物漫画家を招聘する事にはsnsでかなりの反対意見があった。当然集英社内でも賛否両論だろう。しかし、それでもその方向に舵を切らなければならない事情があったはずなのだ。筆者はそれこそがこのタイパ至上主義によるアンケートと打ち切りシステムの崩壊だと思う。
もはや新人漫画家がこのシステムによって育つ事などできなくなっているのだ。連載経験のある漫画家でも従来の掲載スタイルだと順位を落とす。「キルアオ」や「願いのアストロ」などが良い例だろう。従来の漫画のテンポ感や、箸休め的な回を挟んだり、登場人物達の絆を深める為の本編と関係ない章を展開すると如実に順位を落とす。かつてはそれらの章もある程度は楽しんでもらえたが、今は見向きもされない。恐らくこの読者の変化に編集部も気づき、様々な対策を打ったと思われる。その一つが大物漫画家の招聘だったわけだが、それすらも上手くいってない。
その結果が現在の誌面の弱さだ。今までも誌面が弱くなったときは存在したが、それでもジャンプ帝国が揺らぐところは想像できなかった。それは層が厚かったことと、今ほど読者がわがままでなかったこと、ここまで娯楽が情報化しておらず、消費の速度も速くなかったからだ。数十年蓄積したジャンプの面白い漫画を作るというノウハウがまだ通用したから、多少誌面が弱くなっても陰りは見えなかったし想像できなかった。
しかし、現在はそうではない。もはやジャンプの読者は「読者」ではなく、「娯楽を情報として取捨選択する素人批評家」になってしまっている。彼らが自分たちの快不快でもってアンケートを入れてSNSで独自の作品論を展開し、作家が自殺する勢いで批判を繰り返している。もはや、時代はドラゴンボールやワンピースの速度感と民度に戻ることはない。
ジャンプがこのモンスターたちにアンケートによって忖度し続ける限り、ジャンプの弱い誌面はいましばらく続くのではないだろうか?
ジャンプのアンケートはその売り上げや影響力、作ってきた作品の数々によって肯定されている。アンケートの有意性は疑う余地がない。しかし、筆者はそれでも今のアンケートと打ち切りシステムは時代に即していないと感じている。それはアンケート自体の形も適していないと思うが、それ以前に読者の性格があまりにも変わり過ぎている。もはや、忖度できないほどに。
読者は読者ではなく消費者であり批評家なのだ。ひとりひとりがSNSやYouTubeの影響で甚大な影響力を持つようになった。それを後押しするのがインプレゾンビたちだ。このようなアンケートの土台となる人々が大きく変化しているのに、アンケートがいつまでも変わらないのは無理があるだろう。
いま、ジャンプは抜本的な改革が必要だと思う。モンスターと化した読者に忖度し続けるのも限界がある。今がその限界点ではないだろうか?(これを打ち破ったのがカグラバチだと思う。だからバチブロスの中でも筆者が最もこの作品と作者を評価していると思うw)
作者が描きたいことを描いてそれを消費ではなく咀嚼する世の中になれば、不本意な形で打ち切られる漫画も減るし、打ち切られたとしても名作として終わることもできるだろう。ドラゴンボールやワンピースのような長編漫画も生まれるだろう。ジャンプの最大の強みはアンケートであるが、最大の弱みもまたアンケート、いやモンスターな読者であると言えるだろう。
【哲学的な思考記事】↓