spriteの考察日誌

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推しの子作品論 推しの子ヘイトのここが嫌い

 

2024年12月に最終巻が発売された推しの子だが、ヤンジャンで連載された最終回の時と同じくらいのヘイトを買っている。今日は筆者がヘイトを嫌いな理由と彼らの心理について考察していく。

 

目次

 

 

① 推しの子ヘイトとは

まず、推しの子ヘイトとは何かを定義しなければならない。

本記事で言う推しの子ヘイトとは、作品や作者及びそのファンに対して推しの子は駄作だ」「作者は畳むのが下手だ」「こんな作品を好きなやつはゴミだ」「こんな展開にする作者はゴミだ」というような、感想の域を超えた暴言や不当な評価をヘイトと定義する

今回、取り上げるのは推しの子についてだが、このようなヘイトは呪術廻戦にも多く見られた。つまり、これら作品ヘイトは現在連載中の全ての漫画において起こる可能性があり、決して「自分の好きな作品はヘイトされないから関係ねぇや」という対岸の火事ではない現象なのだ。

今回、主に取り上げるのは推しの子と呪術廻戦だが、この2作品はある共通点があり、それがあれほどの大炎上を生んでいる。つまり、他の連載漫画も話の展開次第では同じような末路を辿る可能性がある。本記事では筆者が作品ヘイトを嫌いな理由とヘイトが生まれるメカニズム、ヘイトから見える現代社会のこれからの価値観を論じていく

 

② 推しの子ヘイトのここが嫌い

まずは、筆者が推しの子ヘイトの嫌いな部分を紹介していく。

  1. 感想と批評の区別がついていない
  2. 主語を広げがち
  3. 自分の好きな展開じゃないと気に入らない

大まかにわけるならこの三つだ。

 

① 感想と批評の区別がついていない

推しの子はつまらなくなった」「こんな最終回は酷い!」「こんな展開を作る作者は人の心がない(冗談)

これらは感想だから問題ない。筆者もネガティブなことを言うのを批判しているわけではない。ネガティブなことでも感想の範囲内ならばどんどん言っていくべきだ

 

しかし、

この漫画は駄作となった」「こんな話を作る作者はゴミだ」「作者は話を畳むのが下手だ」このような明らかに悪口とわかるもの読者による不当な評価は感想の範囲を逸脱している。もし、本当に「駄作」となり、「作者は話を畳むのが下手」ならその原因や根拠を明確にすべきである。その根拠を探しても見つかるのは取るに足らない感情論ばかり。時間があったらXなどでエゴサしてほしいが、見つかるものは大体「それ、お前が好きな展開じゃなかったからやん」と言えるものばかりである。彼らは作品や作者を「駄作」とか「下手」とか批評をしているのである。であるならば客観的かつ論理的な根拠を用意すべきだ。だが、彼らにあるのはただの感情論ばかり。これが作品の感想を述べろというなら100点満点だが、批評となると話は別だ。

そこで分かりやすく感情論を根拠にしているブログがあったので引用させてもらう。

 

 『推しの子』が最終回を迎えた。
 真犯人がどうこうの話を始めた頃から完全に興味を喪失していたので、その最終話の内容自体はどうでもいい。

 かつて私は『推しの子』を愛していた。
 始まった当初は生理的な嫌悪感しか抱けず、まともに読んでもいなかったのだが、テラスハウス編を過ぎた辺り、おそらく2.5舞台編の頃(当時の自分の感想を漁る気力も無いので、具体的には思い出せない)にはドハマりしており、神漫画だと讃えていた記憶がある。

 新生B小町のアイドルサクセスストーリーを描くルビーパート、アイ殺しの真犯人を探る復讐譚としてのアクアパート、そこに有馬かなや黒川あかねとのラブコメレースを絡めつつ、芸能界の舞台裏を描き出す贅沢なストーリーには毎週ワクワクさせられた。

 20年代前後に始まった漫画の中では圧倒的にトップ、この世代を代表する漫画になると、そう信じていた。

 

 一体どこから間違えた? とは問わない。
 この漫画の失敗の起点は明確だ。

 即ち、ルビーを闇堕ちさせたこと。
 そこに尽きる。

 あの話から急転直下にクソ漫画と化した。
 これまで積み上げてきたものを、台無しにしたからだ。

 『推しの子』の面白さを支える車輪の一つであるB小町のサクセスストーリー。
 ルビーが闇堕ちして以降、なんとなんと、そこからアイドルとして売れていく姿が「ダイジェスト」で流されたのである。

 バカなのか?

 新生B小町の為に有名作曲家が曲を書きおろし、そのMVを撮影。
 ネット止まりだった彼女達が、まさにここからスターの座を駆け上っていくその大トロの部分を、「闇堕ちルビー」が頑張りましたで全部ドブに捨てた。

 こう書きながらまたフツフツと怒りが蘇ってきている。
 一体全体どういうつもりだったのだろうか。

 いや、ある程度は解る。
 ダイジェスト風味にしてしまった理由の一つは、「地下アイドルがテレビスターとして売れていく話を描くのがしんどかったから」なのだろう。
 おそらくは、アイドルに関する知識もあまり持たないで描き始めたから、「YouTubeでバズる方法」くらいまでは何とか調べて描き切ったものの、そこから先が完全にネタ切れ、スケールの桁が違うだけに「ネットで売れた人達」を取材するのとは次元の違う困難さが見えてしまったに違いない。

 にしても酷すぎるだろ、あのダイジェストは!!

 曲がりなりにも大ヒット作の実績を持つ漫画家なんだから、もう少し頑張れば何とかできたんじゃないの……。
 結局のところ、「奇を衒った展開」という名の楽な方に流れていっただけにしか思えない。

 すべてを擲った成れの果てのゴンを見た時のビスケはきっとこんな感覚だったのだろう。

 選ばれし漫画だった!

 ……まあ、もうどうでもいい。

 今はただ悲しい……

 

neoamakusa.com

 

いかがだろうか?

この記事は推しの子を急転直下にクソ漫画と化したと評している。まぁ、個人の感想のレベルではあると思うが、「クソ漫画」「バカなのか?」「ドブに捨てた」と罵詈雑言の嵐である。感情のままに書き殴っていることは明らかだ。

 

ここでこの記事を分析したい。

まずこのブログ主は、「序盤は生理的嫌悪感でまともに読んでいなかった」と語っている。それは恐らくアラサーの産婦人科医が推しの子として転生したという設定や、ゴローやアイ殺害の真相に切り込むサスペンスパートが受け付けなかったのだろう。

ところがテラスハウス編から好きになり、2.5舞台編のころには神漫画と褒め称えていたそうだ。つまり、この方にとってサスペンスパートやゴローが前面にでるストーリーは苦手であり、テラスハウスや2.5舞台編などのキラキラパートが好みだと言える。

そこからルビーの闇落ち編から「急転直下にクソ漫画と化した」そうだ。冒頭の「真犯人がどうのと始まった時から完全に興味を喪失した」と言っているので、サスペンスパートや闇パートが苦手なのは明白だろう。

 

筆者はこのブログ主の感想を否定しないし、この人が上記の理由で推しの子を嫌いになったことについても何も言わない。ただ一点言いたいのは、「クソ漫画と化した理由は君の感想でしかない」ということだ。これが感想なら筆者は何も言わない。しかし、「クソ漫画と化したと批評をするなら話は違ってくる(さすがに感想のつもりで、クソ漫画と化したと表現したのだとは思うが)

ここで上げている理由は「ブログ主がどういう話が好きか」「どういう話がクソ漫画と感じるのか」というものであり、公平で論理的な「クソ漫画と化した」根拠ではない。例えば「カミキヒカルがぽっと出すぎて感情移入できなかったから、真犯人発覚からアクアの死までの流れが腑に落ちなかったというものなら分かる

この記事で言えば「ルビーの闇落ち編のどの部分でクソ漫画と化したように感じたのか?が説明されていれば納得できただろう。だが、そういったものはなく単にあの頃からクソ漫画と化したと言われたら、「それはあなたが気に入らない展開だったからでしょ?」としか思えないのだ。というか、このブログやXでのヘイトもその殆どはそういうものばかりである。

当然、ルビーの闇落ち編以降も面白いと感じていた読者は納得できない。

彼らアンチはルビーの闇落ち編やアクアの死や最終回を批判の根拠としているが、「この描写は、こういう意味合いとなり、それは作風や作中と整合性が取れないから、おかしい」というような具体的な説明はしておらず、ただ自分たちの好き嫌いが全世界共通認識かのように思い込み、それらが根拠になると本気で思っている。

 

その点、中立の立場で根拠と呼べるものを論じていたのは、呪術廻戦考察系YouTuberのカズヨシさんが運営するサブチャンネル「カズガタリ」で推しの子を扱った一連のシリーズだ。

 

youtu.be

 

この動画では主にキャラの重要性読者の読みたい展開との大きな乖離それらをフォローするだけの力を持ったポジティブかつ王道な展開不足を炎上の理由だと述べている。

こういったものは根拠と呼べるだろう。しかし、「〇〇編からクソ漫画と化した」「こんな展開にするとか作家として下手すぎる」というあやふやな意見では、「あなたが気に入らなかっただけでしょ?」という風にしか見えない。実際、漫画家の双龍さんも筆者と同じ意見だし、YouTubeでカグラバチの感想ラジオをあげている神楽日和のまことさんも同じ意見である。後述するブログ主も同じ見解である。他にも常識のある人々がヘイトを目の当たりにした際の反応は筆者や双龍さんと同じものであった。

 

 

 

 

双龍さんも仰られているが、我々は感想を否定しているのではない。ネガティブな発言を控えろと言っているのではない。単に「駄作」や「下手」と批評したり、自分の思い通りの展開じゃないからと作者を攻撃するということが兎角おかしいのではないか?と自制するように訴えかけているだけだ。

恐ろしい事に、「楽しい時は称賛されていいなら、つまらない時は罵倒されてもいい」「批判されることを恐れるなら最初から漫画など描くな」「公に作品を公開しているのだから、批判や攻撃されるのは当たり前」といった意見も散見された。彼らは根本的に道徳心が薄いのだろう。これは言い換えると「理由があるならいじめてもいい、殺してもいい」と言っているのと等しい。そしてその「理由も公明正大なものではなく自分の好きな展開じゃなかったからという自分の快不快で決めているのだ。彼らこそ「自分を楽しませている間は描いていいよ、生かしといてあげるよ」と主張しているのだ。「俺が不快に感じたら殺すね」という主張なのである。これは極めて危険な思想である。恐らく自分の批判意見に反論が来たから脊髄反射で屁理屈をこねて噛みつき返しているに過ぎないだろうが(さすがに脊髄反射だよね?”ああ言えばこう言う”だよね?)、これを本心で言っていたならあまりにも偏った思想である。

「自分がされて嫌なことはしないようにしよう」「相手の立場になって考えよう」「自分が言ったことは他者から見た時にどう映るか考えよう」こういった基礎的な道徳的思考が欠如している。それというのも彼らは自分たちが言ったことが誹謗中傷だと理解していないからだ。感想の範囲内だと思っている。もちろん、それは個人差があるし個人の主観に左右されるものなので明確に右左と分けられるものではない、グラデーションのあるものであることは理解している。しかし、それでも大方の人が誹謗中傷と感想の線引きと思う境界があるのも事実だ。それを彼らは自分の主観で越境し、そのことについて諫められてもまるで聞く耳を持たない何故なら自分の中では誹謗中傷と感想の境界を越境していないと思っているからだ。誹謗中傷ではなく感想と思っているからだ。しかしそれは越境していないのではなく、「自分の感情で境界を緩めている、自分の都合で引き直している」だけであり、またそれを自覚することができないのである。

 

それ故に彼らは自分の主張が誹謗中傷だったり、根拠が感情論であるという事に無自覚である。彼らはそれが本気で批評に足る正当性のある根拠だと思っているのだ。「なぜこの展開になったのか」「なぜダイジェストという手法をとったのか?」という部分は考察せず、ただ自分の快不快から生まれている主張であることに気づいていない。

百歩譲って感情論を批評の正当な理由になると仮定したとして、推しの子肯定派から反論が来た時に、きちんと論理的に返答できるか、返答が受け入れられるほど筋が通っているか、など反芻していないだろう。脊髄反射でヘイト的な主張をしているだけでその主張に中身があるかどうか作中の情報や描写の意味など考えることなど彼らにはできないのだ。

感想として「つまらない」とか「酷い」というのはどんどん言っていくべきだが、「駄作」とか「下手」とか批評するのであれば論理的な根拠を示すべきだ。だが、彼らが根拠と読んでいるものはすべて個人の感想であり、残念ながらそれでは「あなたの感想ですよね?」の領域をでない。

 

② 主語を広げすぎ

これも気に食わない。

彼らはヘイトをする時にみんな」や「読者はとか主語を自分から広げたがる。筆者が見たヘイトの中でこのようなものがあった。

明らかに読者に不快感を与えようとして描いているんだからボロカス叩かれても可哀想と思えない。

 

この方は赤坂先生と友達なのだろうか?

赤坂先生が「読者をいじめてやろう、グヘへへ」と喋っているのを聞いていたのだろうか?

推しの子を読んで全ての人が自分と同じ感想を持つとでも思っているのだろうか?

筆者は推しの子を読んで不快感を感じたことはなかったし、作者がボロカス叩かれてたら可哀想と思うよ。

 

ところが彼らは自分が感じた感情は全ての人が持っていると思っているし、自分が不快感を感じたなら他人を攻撃してもいいと思っている。そんな精神レベルの低い連中に「読者が」と一括りにされるなどたまったものではない。しかも、「作者が叩かれるのは作者が”読者”の気に入らない話を描いたからだ」というこの主張は、「理由があったらいじめてもいい、いじめられても仕方ない」を意味する。そんなことを臆面もなく言えてしまえる道徳心の低さ。ほとほと愛想が尽きる。

そんな連中と「読者」として一括りにされていることに筆者は強い不快感を感じるのだ。こっちはそんなこと微塵も思ってないのに彼らが勝手に主語を広げるせいで、読者の中に筆者も含まれてしまうし、作者やサイレントマジョリティーも「あ、こういう意見の方が多いんだ」と思ってしまうだろう。それが我慢ならない。

 

なぜ彼らが主語を広げたがるのかというと多数派になりたいからだ。自分たちが多数派だと思わないと感想もろくに言えないのだ。いくら自分の不快感がMAXでも「自分だけが言ってるんじゃない、みんな思ってることなんだと思えないとそれほど強く言えない。だから「みんな」とか「読者が」とか主語を広げたがる。

加えて純粋に「みんな同じ意見」と思っていると思う。自分たちの感想が普通なんだと。恐らくそう思っているのだ。感想は人それぞれだから善い悪いもないのだがその表現方法が彼らはよくない。そして自分の感想が普通かどうかも確定的ではない。類友理論で、自分が選り好んでいるコミュニティなのだから同じような意見が集まるのは自然なことだし、SNSアルゴリズム的にも自分と同じ意見が可視化されやすいのもある。そして推しの子に不満を持たない人は声を荒げてSNSで投稿することもない。つまり、自分と同じ意見は可視化しやすく反対意見は可視化されにくいのだ。そのため彼らは純粋に自分たちの感想が当たり前で多数派だと思っている。

そこに不快と感じたら「不快に感じることはよくないことだ」「不快に感じるという事は自分以外のどこかに原因があるんだ」「不快だから発散させないとだめだ」と思って脊髄反射で不満を垂れ流す癖がSNSのせいで人々に沁みついてしまっている。加えるならインプレ稼ぎで便乗する者もいるだろう。そういったものに乗せられてヘイト意見ばかりが可視化され、注目され、多数派と思い込んで増長していく。

 

③ 自分の好きな展開じゃないと気が済まない

そもそも論として彼らは今週の話が面白かったかなど微塵も気にしていない。ただ、自分が読んでいて気持ちがいいかどうかだけで判断している。今週読んだ話をそのまま受け入れるのではなく、自分の期待に沿っているか、不快感がないかで判断している。だから、自分の感覚と違う話が掲載されたら烈火のごとく怒りだす。彼らの面白いとは自分の知的快楽を満たすものであるか自分の期待に沿っているか自分が不快にならないかを指しているのだ。掲載された話をそのまま受け入れ、解釈し、味わうといったことをしていない。要は面白いかどうかではなく、不快じゃないか、期待通りかどうかで評価を下しているのだ。そしてそれに沿わなかった場合、「読者が嫌がる事を描いたやつが悪い」と言って暴れ始める。だが、それは「読者が嫌がる事ではなく自分が嫌がることに過ぎないのだ。

 

彼らがやっているのは掲載された話を味わうのではなく、期待に適うかジャッジしているに過ぎないそれが彼らの漫画の読み方なのだ。しかも彼らの怖い所は少しでも自分の気に入らない展開があると掌を返して過剰なヘイトをまき散らしだすことだ。

現在、人気沸騰中のカグラバチを推しているXアカウントがある。彼は以前、呪術廻戦の大ファンだったが、七海の死からアンチ気味となり、五条の死で一気に低級呪霊と成り果てた。そこからは過剰なほど呪術廻戦の穴を探し始め、日下部は優しくないだの、ミゲルの話はポリコレを意識してて寒いし取り扱い方が下手だの、わけのわからない難癖をつけまくるアカウントとなった。彼は今カグラバチの信者となっているが、いつその魔法が解けるのか、筆者は興味深く見守っている。今は気持ち悪いくらいカグラバチの信者となり、明らかに描写不足だったり説明不足(登場キャラの客観的な強さの描写不足や命滅契約の重複など)だったりするにもかかわらず、まだ目をつむっている。呪術廻戦の時もこうだったと思うと寒気がする。勝手に自分の中で作品を神格化し、自分の理想的な作品像を作り出し、夢中になっている。そして自分の中の神格化された理想像とズレた展開が描かれると途端に怒りだし、ヘイトをまき散らし始める。いつカグラバチに対してその矛先が向くのか楽しみでならない。

 

繰り返しになるが、彼らのヘイトの中身はほぼほぼ自分の期待通りじゃなかったからで済むものばかりである。それを分かりやすく言語化しているブログがあったので引用させてもらう。

 

終わり方が下手と言ってる人たちは、ちゃんと単行本を買って読み直したほうが良いと思うのだ。

赤坂アカの終わらせ方が下手なのではなくて、
おそらくだが多くの人達は159話~163話で描かれている内容について
情報量が多すぎるせいでスッキリとした解釈ができなくてモヤモヤしてるだけではないのか。

 

「スッキリした終わり方をさせてくれるのが当然だ」と思っているのではないか。



個人的には、終盤のこういう展開って
昔たくさんやったゼロ年代エロゲでよく味わったものであり、懐かしいなとすら思ったのだけれど。

 

この物語は、最初からこの盤面を作るためにあった。

 


このページ見ただけで、読者が想定するようなルートは
作者は考慮していることはわかるはずだ。

そのうえで、なぜこの選択にしたのかというという意味を考えずに
「自分の望んだ結末じゃなかったから駄目」っていうのは小学生の感想じゃないか。

 

それについて、163話でちゃんとケアまでしている。

ここらへんに書かれていることをちゃんと踏まえたうえで「この選択は好きじゃない」というのは自由だ。好き嫌いの問題だから。

 

だが「下手くそだ」という評価をするなら、じゃあどうするべきだったのか語る努力はするべきだ。

実際にやってみたら、私は「カミキヒカルが説明不十分である」以外そんなにケチをつけるところはないと思ってるんだけどな。

99%批判してる人がいうような提案は作者は考慮済みだろう。

「ありもしない真実のエンディング」を基準にしてそうならなかったから文句を言うというのは無駄なことだと思う。

赤坂アカはインスタントバレットのときからずっと「自分を愛せない」「他者を愛せない」という個人的な悩みを描いてきたけれど、今回は今までで一番前進したと思っている

ひっそり打ち切りになった「恋愛代行」もそういう話を描いてる。

ただ、それをむき出しにすると売れないことがよくわかってしまったからこそ
かぐや様みたいに過剰にギャグ調として描いたり
推しの子みたいにアイドルとファンの関係にしてしまっている。

note.com

本作も最初から「誰か(アクアというよりは作者)」が、自分を許せるようになる話、他者を愛せるようになる話だった。ゼロ年代はむしろ当たり前だった


上でも書いたけれど、ゼロ年代ではこういう作品たくさんあった。

これをベースで考えれば、アクアが留保なしに生き残るなんてのはむしろ興ざめと感じる。

その展開にしたいのであれば、多分あと5巻ぶんくらいgdgd展開をやる必要がある。



推しの子は、そのgdgd展開を捨てたから最後まで失速せずに来たのだ。
そこまでしてアクア生き残らせたいというのはただの読者のエゴであって
お前らこそ物語の整合性考えろといいたい。 

自分の望んだ終わり方かどうかだけで作品の善し悪しを判定するとか小学生か。
そういう感想を言う人が多いのは良いが
大の大人が恥ずかしげもなくそういう感想を述べるのはちょっとどうかと思う。

 カミキヒカルの危険性がいまひとつわかりにくかったから「アクアが道連れにしなくてもなんとかなったんじゃないか」って考えちゃうんだろうな。

 

それにしても辛いとかショックという感情をそのまま作品の評価に結びつけるのはまじで本当にひどいというか見てて辛かった。

yoshikimanga.hatenablog.com

 

 

いかがだろうか?

非常に分かりやすい推しの子ヘイトに対する論評である。ヘイトをする人たちは自分たちの主張が「自分の好きな展開じゃないから」という一言で済むものとは思っていないだろう。だが、この記事でも書かれている通り、どれほどXの140文字内で論理立てた主張をしていてもその中身は「自分の好きな展開じゃないから」なのだ。そのことに彼らは気づいていない。自分たちの感想は大多数の人たちが思っていることで、大多数の人たちが思っているなら作者や作品も批難されて当然と思っている。その中に我々を含めないでほしいのだ。推しの子に対してそれほどネガティブな感想を持ち、SNSであれだけ叩ける読者だと思われたくない。だから主語を広げてまで自分の鬱憤を解消することを優先する彼らに嫌悪感を抱いてしまう。

 

先日、仕事先でこのような会話が耳に入った。

父「宿題を今のうちにやりなさい。時間があるんだから。」

娘「でも、昨日後回しにしたら集中できた気がしたもん。」

何とも可愛らしい会話であるが、筆者も幼少期はこの娘さんのような言い訳をして宿題をせず、「そんな言い訳辞めなさい!」と母親に怒られていた。

筆者が作品ヘイトを目の当たりにした時の感覚はこれに近い。大人から見れば全く論理性のない根拠とすら呼べない言い訳を、子供は本気で正当性のある根拠だと思い込んでいる。それは子供故に論理的な思考で自分の主張を反芻する事ができないし、客観的な第三者視点を持ち合わせていないから、自分の主張が言い訳に過ぎない事が分からないのだが、SNSで作品ヘイトをしている連中もこのレベルである。自分達の主張は一般論ではなくただの主観であるし、根拠はただの主観に基づいた快不快である。だが、彼らは論理的に反芻する事はできず、客観的に自分の主張を見つめ直す事もできない。だから臆面もなくあのような小学生のような根拠でヘイトを撒き散らしているのだ。

 

そして、彼らは筆者がこれほど「感想はネガティブなものも含めて言っていくべき、だが批評をするなら根拠を出すべきだし、過剰なヘイトはお門違いである」と説いても自分の意見や感想が筆者によってバカにされていると感じて叩いてくるだろう。「感想と批評は異なるし、共存できる。」ただそれだけのことなのに彼らは自分の感想が全否定されたように感じて猛反撃してくる。自分は作者やファンを「ゴミだ」「下手だ」というくせに、それに反論されたら烈火のごとく怒り狂う。その過剰な繊細さと自分のことを棚に上げる思考回路こそがあれだけのヘイトに繋がっているのだ。

 

③ なぜ、ヘイトは生まれるのか

人々が推しの子や呪術廻戦にヘイトを抱く理由は、先ほど紹介したカズヨシさんの動画でほぼほぼ語られている。

  1. キャラの重要性
  2. 王道展開
  3. 読者の期待に添う

 

主にこの3つで説明がつく。つまり読者から人気のキャラが死んでしまうと、それだけでヘイトを買うのだ。読者が愛してやまないキャラが予想外の形で、雑に死んでしまうと作者へストレスの矛先が向いてしまう。

百歩譲って人気キャラの死に正当な理由があったとしてもその後のストーリーが王道なものであるか、または読者が期待しているような話であれば問題ないのだ。何故なら人気キャラの死がスパイスとなるから。より素晴らしい作品として完結するだろう。そこに関しては筆者もその通りだと思うし異論はない。アクアや五条悟の死についてもその後のストーリーが熱い王道展開だったり、読者の期待に添うものであればあそこまでのヘイトは向かなかっただろう。特に呪術廻戦の最終盤は1年ズの任務が描かれており評判は極めて良かった。推しの子もあのような描写がもう少しあればヘイトも和らいでいただろう。

 

つまり、上記の3つの理由が当てはまった場合、推しの子や呪術廻戦じゃなくてもヘイトが起こりうるという事である。それは逆説的に推しの子や呪術廻戦のような作風や展開にしずらくなるということである。これもある種、多様性を狭めることに繋がると言えるかもしれない。

その為、推しの子や呪術廻戦のような作風や展開をする場合、アフターフォローもしっかりしなければ要らぬ風評被害を受けてしまう。人気キャラを死なす場合はその後の展開は王道か、読者が期待しているような話を展開する必要がある。

 

youtu.be

 

このように、推しの子にも呪術廻戦にも問題はある。作品の内容も王道にこだわって終わったヒロアカと比べるとその差は明らかだろう。カズヨシさんがあげた理由も至極その通りで異論はない。だが、筆者がこの記事で発信したいのはそこではない。

いかなる理由があれ、あれほど叩いていい理由にはならないし、そもそも上記のような理由であれほど怒れること自体が異常なのではないか?というところに焦点を当てて論じていく。

 

 

sprite289.hateblo.jp

 

 

④ 加速する消費者マインド

推しの子や呪術廻戦に起きたヘイトには理解できるだけの原因がある。しかし、それを感想の範囲を超えてヘイトするのには別の原因があると筆者は考えている。あれほど作者や作品に対して憎しみを抱くというのは尋常ではない。憎しみを抱く理由は上記の通りだが、原因は別のところにあると思っている。

 

  1. 娯楽が情報化している
  2. 無料サービスの普及
  3. SNSという愚痴サービス

 

① 娯楽が情報化している

最近は倍速視聴やネタバレを見てから効率よく娯楽を楽しむのがスタンダードになってきている。本来、映画やアニメの中の速度と我々の体感速度は等しいため、登場人物の気持ちに近い気持ちになったり、臨場感を感じたり、没入できる。しかし、倍速視聴をするとそれらを構成する」や「余韻」「雰囲気といった行間が省略されることで体感速度からずれていき効果が不十分になったりする。そのため臨場感や没入感登場人物への共感などが十分に発揮されない

それでもなお倍速視聴をする人たちが多いのは、映画やアニメを100%楽しむのではなくそのアニメの内容を知りたいだけなのだ。つまり、娯楽が情報化しているのだ。彼らがやっているのは娯楽を咀嚼するのではなく情報を消費することに等しい。そのことについて論じた記事が以下の記事である。(ちなみに週刊少年ジャンプのアンケートが2024年秋から変化したが、その1ヶ月前に書いたこの記事でジャンプのアンケートの変化をすでに予言していた。)

 

sprite289.hateblo.jp

 

この娯楽が情報化したことによって作品を解釈する」「咀嚼するではなく、「消費する」「有益か批評するに移り変わってしまった。これによって作品をありのまま読むのではなく、自分に有益化どうかジャッジするものに変わってしまった。何故なら咀嚼ではなく、消費になっているからだ。消費しているのだから今の自分の能力や読解力、価値観、思考で満足できたかをジャッジする。満たしてないならそれは作品や作者が悪い。そのようなマインドになっている。無意識化ではあるものの、そのような消費者マインド、殿様マインドが加速している。これが「咀嚼」と「解釈」との決定的な違いだろう。答えがないものに対し、多面的に考えるか、多面的に感じるかを重視するのが解釈であるが、「消費はただ気分がいいか判断する。難しく考える必要はないが、最近の読者はこの消費者マインドが特に強いように感じられる。

 

特にTik Tokやインスタグラムなどのサービスはこの消費者マインドを強烈に加速させる。ただ、膨大な量の情報を一方的に受け入れるサービスであるため自分で考えるという事をする必要がない。椅子に縛り付けられている状態で延々と映像だけを流し込まれている状態なのだ。即ち何も考える必要がない。誰かが作ったものや、誰かが解釈したものを一方的に受け取っている。一次情報を自分で解釈するのではなく、誰かが加工した二次情報を一方的に流し込まれているだけだ。これでは自分の頭で考えることなどできまい。このようなサービスを日常的に利用し続ければ、自分の頭で情報を処理するという事ができなくなる。自分の頭で解釈したり感想を持つことができなくなる。つまり、あらゆる情報や現実が第三者によって加工され、それを摂取することで自分の頭で考える事を退化していくのである。

 

sprite289.hateblo.jp

 

 

② 無料サービスの普及

それらをさらに加速させるのが無料サービスだ。近年、無料サービスが溢れかえっている。無料視聴、無料試し読み、無料体験、無料登録などジャンルを問わずありとあらゆるものが無料で体験できる。評判の作品をまずは無料で試し読みをして面白ければお金を払って続きを読む。このような入り方がスタンダードになっている。それが悪いはわけではないが、相対的にお金を払うハードルが上がり見返りを求める意識が強くなってしまう。前述の娯楽の情報化と加速する消費者マインドによって見返りを求める力は上がり続けている。

要は損得勘定である。「お金を払ったんだから面白くないといけない」「お金を払ったんだから期待通りの内容でなければならない」このような心理が働くようになる。そのため、自身の思っていた内容と違うものが掲載されていたら落胆が大きくなってしまい、不満を感じてしまう。特に人気キャラの死はここに油を注ぐようなものだ。五条悟や星野アクアの死はまさにこう言った背景があったからこそあれほどよく燃えたのだ。

 

週間連載はそれを買うまでどんな話が掲載されるかわからないその話を知るためにお金を払うのが週間連載というシステムなのだ。自分の好きな展開、望む内容、期待以上のストーリーかジャッジするためにお金を払うのではなく、その話そのものを知るためにお金を払うのだ。当然、神回もあればハズレ回もある。消費とはいわばギャンブルなのだ。

これが例えばレストランでの食事なら彼らのヘイトも理解できる。レストランでメニューを開き、ハンバーグ定食を注文したとする。しかし、運ばれてきたのは生姜焼き定食だった。これなら怒る理由も分かる。何故ならハンバーグ定食というメニューがあるのを知ったうえで注文しているからだ。ハンバーグ定食が来るというのが確定した状態で違うものが来たら怒るのは当然である。

しかし、漫画は違う。漫画はそもそもメニューがないのだ。いわばお任せで作ってもらう日替わり定食のようなものである。その日に入荷した食材でアドリブで作る海鮮丼のようなものだ。お任せでシェフに料理をお願いしたのに「ハンバーグ定食じゃねじゃん!」とキレている者がいたら絶句するだろう。それと同じ現象が起きているのだ。

 

面白い事にこういった現象は他のエンタメではあまり見られない。例えばドラマで思い通りの展開じゃなかった時に「こんなドラマを作る脚本家はゴミだ!」とキレ散らかすものはあまり多くないだろう。いるにはいるが漫画ほど多くないし、漫画ほどは燃えない。スピルバーグの映画を見てイマイチだなと思ったときに「スピルバーグはゴミだ、下手だ!」という奴はそれほど多くないはずだ。「今回はスピルバーグにしては微妙だったね。あの演出はあまり良くなかったと思う」など、推しの子や呪術廻戦で見られるような子供じみた意見はあまり見られないだろう。

ある作品が面白くなかった時に、面白くないからと言って創作者をあれほどまでに叩きまくるのは、筆者の知る限り漫画においてしか見られない現象だ。対象年齢が低いからというのはあるが、それでもちょっと異常だと思う。

それというのもお金を払う感覚がズレているからだ。漫画は先ほど言ったようにどんな話が掲載されるか分からないそれを知るために対価を払っているのだ。自分の期待や望む展開かどうか確かめるためにお金を払っているのではない。映画などはその映画に誰が出るのか、どんな話なのか、どんなハイライトがあるのかがある程度は分かっている。しかし、漫画は一切分からない。例えばワンピースなどはルフィたちの冒険が描かれるのか、別の島の話が描かれるのか、敵側の話なのか、何一つ分からない。推しの子も同様にアクアの話なのか、ルビーの話なのか、有馬の話なのか、買って読むまで分からない。「自分の気に入る展開かどうかを確認する以前に、「そもそもどんな内容なのか知るために対価を払っているという感覚を取り戻すべきだ

その話が面白いか期待するのは当たり前なのだが、その期待があまりにも強くなりすぎているように感じる。強すぎるからイメージと違うだけで異常に落ち込んでしまう。期待に引っ張られ過ぎなのだ。本来、その対価を払わなければ期待通りか確認するどころか、話の内容すら分からないのが週間連載というシステムというのに。

 

SNSという愚痴サービス

本来、これまで論じてきたことは可視化されない心の中のものであった。しかし、SNSの普及によって人々の怨嗟が可視化されるようになってきた。そのため炎上という形で人々の目にヘイトが入るようになっている。SNSでヘイトをしてしまうような沸点の低い人たちは必然的にSNSの書き込みが多くなる。自己開示には麻薬やSEXに近いほどの快楽効果があるらしい。それと照らし合わせれば彼らヘイタ―達があれほどSNSで饒舌なのもよくわかる。もはや彼らは自分の心の中の鬱憤を吐き出さないと禁断症状が出てしまうほどに自己開示中毒となっている

そして友人に自己開示する気持ちよさとは別の気持ちよさがSNSにはある。インプレッションだ。SNSには「いいね」や「拡散」などの自分の意見が評価されるという仕組みがある。これによって自己肯定感が爆上がりし、自分の意見の正当性が認められ、ヒエラルキーの上位に立っているような感覚に陥る

それを更に加速させるのが「自分の意見と近い意見が表示されやすい」というアルゴリズムがある。これによって、自分の意見は「いいね」され、「拡散」され、コメントで称賛と共感を浴びて、自己肯定感が上がり、自分の意見が正当性のあるものだと勘違いし、自分と同じ意見ばかりが表示されるので、その勘違いがどんどん増長していく。

そこにインプレ稼ぎの連中まで加わって更に過熱していく。もはや本心で言っているのか区別がつかない状況になっている。しかし構わない。自分と同じ意見なのだから。仮に称賛してくれている相手が架空のアカウントであったとしても問題ないのだ。自分の自己肯定感を高めてくれて、称賛と共感をしてくれて、拡散してくれて、自分の正当性を認めてくれればなんだっていいのだ。

そうやって出来上がった井の中の蛙たちが好き勝手自分の快不快をまき散らしているのがSNSという世界だ。彼らヘイター達が人に攻撃しているくせに同じことをされた時に執拗に噛みつき返すのは、「自分の感想が世間的には批評と捉えられていることを認識できない語彙の少なさと、「自分の感想はいかなる場合においても反対されてはならないという思い上がりと、「自分の意見は正当性があり、大多数の意見と同じなんだという認知のゆがみこれらの勘違いによって彼らヘイタ―達は調子づき、もはや仲間内の諫言すら耳に入らないようになっている

 

⑤ 作品ヘイトの正体

ここまで論じてきたことをまとめると、作品ヘイトとは

  1. 掲載された話ありのままに読むのではなく、自分の期待に沿っているかを確かめるために読んでいる
  2. 人気キャラの活躍、王道展開などが期待通りの話であり、必ずそこに帰着しないといけない
  3. 帰着しなかった場合、それまでにどれだけ面白く、それ以降も面白かったとしても駄作となる
  4. 駄作となったなら作者が自殺するほど追い込んでもいい、いや追い込むべきだ、という思想のもとに誹謗中傷をする事で憂さ晴らしをしている
  5. 上記のような思想が生まれて流行り始めたのは、無料視聴や、無料試し読みなどの無料サービスによって、無料で作品の良し悪しを確認できる環境が整ったことで、お金を払うハードルが上がり、相対的に見返りを求めるようになったからである
  6. その見返りというのが、人気キャラの活躍や王道展開である
  7. 時短サービスによって、娯楽を構成する要素である「間」や「余韻」「雰囲気」といった「行間」が省略されていき、「感動」や「共感」「没入感」が薄れていくことで、娯楽が「解釈」する「味わう」ものから、短時間で「中身」を知るための「情報」と化し、「消費」するものに移り変わっていった
  8. 現在の漫画は「読者」が「気に入る展開」を「テンポ」よく掲載する、「消費サービス」になりつつあり、読者もまた、それが当然、むしろそうでなければならないと思っている
  9. 以前は、「100人いれば100通りの解釈がある、だから読者に解釈を委ねる作品は良作だ」という認識が浸透しており、「咀嚼する」「味わう」というところに重きを置いていたが、現在は無料サービスや時短サービスの普及によってそれらは失われ「自分の快不快で判断する消費者マインド」が強まっていった
  10. 自分の不快を簡単にアウトプットできるSNSが普及したことで、人々の不満が可視化され、共感され、拡散されることで、自分と同じ意見が目に入るようなり、自分の感覚が一般的であるかのように錯覚することが増えた

 

これらが複雑に相互に影響し合うことで作品ヘイトは生まれ、その力は強まっているのだと思う。

筆者は冒頭から述べているが、作品や作者へ憎しみを抱くのは悪い事ではない肯定的な意見を認めるならば、否定的な意見も認めなければならず、筆者自身も作品に対してネガティブな感想を持つことも多い。もしネガティブな意見を持ってはならないのならば筆者自身、それが不可能なことを理解しているし、全ての人々が感想を持つことを否定することも、制限することもできないし、したくない。

ただ、あれほどまでに強い憎しみが生まれる原因の一つに、文明の発展や新たなサービスの変化、社会全体の価値観の変化などが、読者の漫画の読み方を大幅に変えており、その結果として、あれほど強いヘイトが生まれたのだと考えている

 

推しの子で言うとルビーがアイを超えるアイドルになるという大トロの部分をダイジェストにすることでドブに捨てたと多くのヘイタ―達は考えている。しかし、漫画を読めばそう単純な話じゃないことがよくわかる。ルビーはアクアの死を乗り越えられないまま立ち上がらなければならなかった。何故ならアイドルとして心待ちにしているファンを無視して舞台に上がらないという選択は、アイドルとして許されないからだ。すなわち、ルビーはアクアの死を整理できないままアイドルを演じなければならなかったのだ。何かを思い出さないだろうか?そう、我々読者である。我々読者もまた、ダイジェスト形式で駆け足な最終回によって感情が整理できないまま、ルビーと同じように舞台に上がったのだ。

つまり、感情が整理できないまま舞台に上がったルビーと、感情が整理できないまま最終回を読み切った我々は同じ心境なのだ。アクアの死が整理できないままのルビーと、アクアの死が整理できないままの我々は、ルビーと同じように感情がぐちゃぐちゃなのだ。要は作中のルビーがどれほど感情がぐちゃぐちゃのままアイドルを演じたのかというルビーの強さと成長を我々はダイジェスト形式の最終回によって追体験できたのだ。上記の引用ブログでも書かれているが、読者が想像するアクア生存によるハッピーエンドなど、作者は最初から理解している。だからこそ、アクアの望みとしてifストーリーとしてあれが描かれたのだ。

作者は読者の望むハッピーエンドなど理解している。しかし、それではこの物語の始まりとなった、「証拠を作らないシリアルキラー、カミキヒカル」を殺すことができず、殺すことができなければ、ルビーも有馬もあかねもバッドエンドとなってしまう。そしてカミキヒカルが逮捕不可能なシリアルキラーでなければ、推しの子という物語自体が始まらない。従って、アクアはカミキヒカルと共に死なねばならず、死んだならルビーはどのようにアイドルを演じるのかを作者なりに考えた結果、ダイジェスト形式を選んだのだ。ダイジェスト形式にした理由は、「アクアの死を整理できないルビーの感情と読者の感情をシンクロさせるためだ。これによりアクアの死を整理できないルビーを駆け足にダイジェストで描くことで、我々読者の感情を、アクアの死を整理できないルビーと同じ感情にさせることに成功し、そんな心の闇を隠しながらも時折それがにじみ出ることで闇の底にいる人にも光を届けられる、アイにもなれなかった究極のアイドルに、ルビーはなれたのだ。

 

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(引用:推しの子/著者赤坂アカ/横槍メンゴ)

 

整理すると、作者は読者が望むようなハッピーエンドは想定している。しかし、物語の起点であるカミキヒカルは逮捕や社会的抹殺で仕留めることができず、アクアが生き延びればルビーは殺人犯の妹としてアイドルを辞めなければならず、従ってアクアとカミキヒカルは共倒れになるしかないという、設定上の整合性をどこかで取らなければならなかった。しかし、そうなるとアクアはただ整合性を取るためだけに使い捨てられたことになるので、アクアの死をルビーの成長につなげる必要性が生じた。それがダイジェスト形式である。アクアの死を整理できないまま心の闇を滲み出しながらもアイドルを演じるルビーをダイジェスト形式で描くことで、我々読者もまたアクアの死が整理できない心境になる。それは即ちルビーと同じ心境なのだ。そんなぐちゃぐちゃなルビーだからこそ、心の闇がにじみ出ることで同じく心の闇を抱えた人が共感できるアイドルになれたのだ。それは嘘をつき続けるアイでは絶対になる事ができないアイドルなのだ。本当の心の闇を抱えたルビーだからこそ、同じく心の闇を抱えた人を救えるアイドルになれたのだ。

 

ダイジェスト形式手抜きではない。あれにはあれで意味がある。しかし、読者は「最終回とはこうあるべき」「推しの子の最終回なんだから”読者”が満足できる最終回がくるはずだろ」という勝手な期待と想像を持っていたから、それと違う最終回が描かれたことであれほど炎上したのだ。それは作品をありのまま読むのではなく、「漫画という”情報”が自分を満足させるものかどうか」という視点で読んでいるから憎しみが生まれ、それを昇華できなくなり、作者や作品を誹謗中傷することで心のバランスを整えようとしているのだ。

こう書くと「読者はそこまで作品を読み解かないといけないのかよ」と思う人もいるだろうが、そんなに大げさな事ではない。全く大げさではない。単に心をフラットにして漫画を読めばいいだけだ。ただそれだけだ。何も難しくないし、難しく考える必要はない。単にありのままを受け取ればいいのだ。それだけ。それができないのは自分の中に過剰な期待や想像があるからだ。見返りを求めているからだ。それが前提にあるからそれに則っているかどうかを判断するかのように漫画を読む。だからあれだけの憎しみが生まれ、自分では昇華できず、他者に当てつけて解消しようとするのだ。そして自分と反対意見が出てきたら烈火のごとく怒り狂い反論してくる。それもまた、「自分の意見こそ多数派で常識的で絶対的に正しい」という思い込みがあるからである。

 

こんな風にダイジェスト形式を肯定するような事を書くと、「spriteは推しの子が好きだから無理矢理、肯定的に解釈しようとしている。」「何でも解釈を変えれば肯定的になれるよねと言ってくるものもいるだろう。腹立たしい事にそう思われる事を止める事ができない。だが言わせてもらう。

筆者は推しの子が好きだから、肯定的にダイジェスト形式を解釈しているわけではない。

推しの子の最終回に関して全く不快感を感じないだけだ。何故、不快感を感じないのかを自己分析して言語化して記事に書いているだけだ。上記のようなダイジェスト形式の考察は、何時間も何日もかけて解釈したのではなく、「何故、筆者は不快感を感じないのだろう。「何故、素晴らしい最終回だと思ったのだろう」と自己分析したに過ぎない。

つまり、推しの子が好きだから肯定的に解釈したのではなく、なぜ不快感を感じなかったのだろうと自己分析しただけなのだ。

筆者からすると何故この最終回に不満が出るのか理解できない。理解できないからこそ多面的に多角的にこの作品ヘイトという現象について考察したのだ。それをまとめたのが本記事である。勘違いされたくないのは、推しの子が大好きだから肯定的に解釈したのではなく、推しの子を読んで不快感を感じなかったから、不快感を感じる人を分析しているに過ぎないのだ。それに付随して、自分がこの最終回を肯定的に感じた理由も自己分析しただけである。

 

繰り返すが、「ネガティブな感想を言うな」とか、「推しの子を嫌いという感想を持つな」など、筆者は一言も言っていない。

「推しの子に肯定的な感想を持て」とか「解釈を変えて推しの子を肯定的に読め」とも言っていない。

感想なら好きなだけ言えばいい。

だが、「駄作」や「下手」というなら自然に読んでそう思わない人を納得させるだけの根拠を示して欲しいのだ。この記事を書くにあたり、筆者のできる範囲で否定的な意見に目を通したが、その殆どは根拠と言えるものではなかった。筆者は無理矢理、肯定的に解釈した訳でもなく、推しの子の信者でもない。週刊連載で毎週読んでるだけのライト層だ。そんなライト層が特別な解釈をせずとも特に不満に思う部分はなかったというだけである。自分の鬱憤をSNSで晴らす前に少しだけ作品を振り返ってみてはどうか?それをするだけで色々な事が見えてくるはずだ。その上で「この最終回が気に入らない」とか、「ダイジェストは嫌だった」とかは別に良いと思う。好き嫌いの問題だから。

殆どの読者は鬱憤すら抱かないからわざわざ振り返ったりしない。「あー、ルビーは心の整理ができないままアイドルを演じたんだな、その結果闇の底にいる人にも光を届けられたんだなと感想を持つだけだ。「アクアが死んだんだから、その闇を塗り返すだけの光のエピソードが欲しい!」など思わないし、読む前にそんな事も考えていない。ただ「今週の話はどんな感じだろう?」くらいの感覚で読んでいるのだ。だから過度な期待も、身勝手なストーリーも、光のエピソードによる心のバランスを取る必要性も求めていない。求めていないからフラットに読める。ただ、それだけ。たったそれだけのことなのだ。

筆者は特別な解釈をしていないし、無理に肯定的に推しの子を読んでいるわけではないし、「アクアの死を塗り替えるだけの光のエピソードがないとおかしい!」なども思っていない。単に出された料理を食べただけだ。推しの子が好きな人ほど今回の最終回は受け入れ難いのかもしれないが、作品に入れ込み過ぎている事と、作品を良く感じる事は別々であり共存できる。別に作品に入れ込んでいたってフラットに読む事はできる。そら多少の不満はあるだろうが、あれ程までに不満を抱くに足る根拠は見当たらない。

要は、肯定的に読まなくても、解釈をしなくても、特に不満に思う所がないから、不満を言ってる人の主張を見たり、なぜ自分が不満を抱かないのか自己分析しただけである。別に無理に肯定的に読んでいる訳ではない。勿論、推しの子にも構造的なヘイトを買ってしまう問題点はあるのだろう。だが、それがある事とあれだけ作者を攻撃できる、攻撃したくなるのは別物である。歩譲って攻撃される理由があったとしてもそれを理由にして攻撃する人間にどれ程の正当性があるのだろうか?そしてその内容は本当に攻撃されて仕方ないと言えるものなのか?それを分析すると、とても攻撃される程の根拠は見当たらなかっただけである。

 

何故、この事をこれだけ繰り返し言うのかと言うと、この前提を何度も繰り返さないと、「否定的な感想を持つのは悪いのかよ!」とか「それはspriteが無理矢理、肯定的に解釈してるだけだろ!」という声が必ず上がるからだ。前述したように筆者はネガティブな感想を否定していないし、無理に肯定的な解釈をした訳でもない。しかし、ヘイター達は必ず筆者にもそのように当てつける。まるで自分の主張を全否定されたかのような剣幕で喰いかかってくる

ヘイトをする人々は一様に「自分の感想が正しい」「自分の主張は肯定されてしかるべきだ」と自らに原因があるなど考えず、自らの行動を顧みることをしない。驚くほどしない。彼らは自らに反省すべきところなどないと考えているのだ。だからこそ、自分がこんなに不快な思いをするのは、そんな展開を描いた作者が悪いんだと他者のせいにしてしまう「自分の意見に反対する奴は無理に肯定的な解釈をする盲目な信者なんだ!と自分の主観で筆者の意見を決めつけてくる筆者がヘイター達の意見や感想を尊重している事が目に入っていないのだ

次の章ではなぜそのような他責マインドがはびこり、自らの意見が絶対的であるかのように錯覚し、過激な感想を撒き散らしまくるのか、彼らがやっている事を論じていく。

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⑥ 感想という名の誹謗中傷

彼らがやっているのは、「感想」という名の憂さ晴らしである。漫画を読んだときに悲しい気持ちになったり、楽しい気持ちになったりするのはいいことだ。それをSNSで発信するのもいいことだ。だが、自分の感情がぐちゃぐちゃになった時に作者や作品に当てつけるのは間違っている。それもカズヨシさんのようにある程度、自己分析できているならともかく、殆どの場合「自分の期待と違ったから」と言えるようなものばかりである。

 

作品を読んだ時の辛いとか悲しいとかショックとかいう感情をそのまま作品の評価につなげてしまっている。本来、感想とその作品が好きかどうか、名作かどうかといった評価は別物であり、共存するのだ。しかし、彼らはそんな風に考える思考回路を持ち合わせていない。何故なら彼らは0-100で物事を捉えているからだ。自分が100感じたらそれが絶対であり、0が存在する事理解していない。自分とは異なる100が存在するとは思っていないのだ。0-100で物事を考えていてネガティブな感情を抱いたらネガティブな方に100引っ張られてしまう。そしてそのネガティブな感情を抱いたら誰かに責任を求める。「自分がこんな感情になったのは、アクアや五条を死なせた作者のせいだ!」「作者の畳み方が下手だからこんな感情になったんだ」と他者に当てつける。

 

大失敗があったからと言って大成功がなくなるわけではないのに、それらは共存するのに、彼らの中では許せない事なのだ。それは恐らくこれまで論じてきたような、

「自分の感想が”評価”に分類されるものだと気づいていない」

「"評価”の根拠が感情論であることに気づいていない」

何故なら「自分と同じ意見が可視化されやすいSNSのせいで、自分の意見が多数派だと、一般論だと思っている」から、根拠が感情論であっても正当性があると勘違いできてしまう。

主語を「読者」と広げることで、「個人の感想」から「一般論」に広がり、虚勢と安心感を得たことで無自覚な誹謗中傷が増長している所に原因があるのだ。

 

彼らは「創作者は批判されるべき」「批判される覚悟を持つべき」「称賛を受け入れるなら批判も受け入れるべきだ」と主張しているが、それは「創作者」が持つべき姿勢であり、それを隠れ蓑にすれば誹謗中傷をしてもいいという理由にはならないことが理解できていない。

そしてこういう主張をする人間が「創作者」の立場になった時にそのような姿勢を取る事は出来ないだろう。何故なら自分の「感想」を「批難された」と感じるような繊細さんだからだ。今回の件に限れば自分が自己中心的な批判をしているのだから、反対意見が飛んできて然るべきだが、自分に来た反対意見は受け入れることができない。彼らは自分の意見は「創作者なんだから受け入れろ」と主張するのにも関わらず、自分に対する批判は受け入れられないのだ。まさに「ああ言えばこう言う」という返答ばかり返ってくる。

 

つまるところ幼稚なのだ。作者がその展開を選んだ理由を探さず自分の読解力の中で分かるものしか拾わず自分の感情に振り回され、主観を一般論に広げ、「感想なんだから受け入れろ!と執拗なまでに作者に誹謗中傷を繰り返している。その根源は「自分の気に入る展開じゃなかったから」なのだ。

このような人間が爆発的に増えている。その背景には無料サービスによる相対的な金銭の支払いに対するハードルの上昇と、見返りを求めてしまう無意識なバイアス

時短サービスによる娯楽の情報化によって、作品を構成する「間」や「余韻」が失われ、単に作品の中身だけを知るのみに重点を置くようになった所に遠因がある。

彼らにとっていかに無駄を楽しむかではなくいかに無駄を効率よく消費できるかが重要であり、従って例え最後まで見れなかったとしても作品を100%味わおうとするのではなく、効率よく中身を知ることに重点を置いている「味わう」のでなく「情報」を「消費している」に過ぎない。

 

作者は自分の望む展開を描いてくれる代筆者ではない。

漫画は必ず自分の期待通り、期待以上の話が掲載されるものではない。

全ての読者が自分と同じ感想を持つわけではない。

SNSでは自分の意見と近い意見が可視化されているに過ぎない。

これら基本的なことをこれだけ嚙み砕いて言わなければ自身の異常性に気づけないのは異常事態である。そして筆者がこれだけ説いても「感想の何が悪いんだ!」と噛みつく人もいるだろう。改めて言うが感想は好きなだけ言え。ネガティブな事も好きなだけ言え。だが、作者や作品に必要以上当てつけたりるな。駄作や下手という評価をするなら相応の根拠を示せ。君たちがやっているのは感想の皮を被った誹謗中傷であり、感想ではなく評価なのだ。そこをはき違えているものが多すぎるのだ。

 

もちろん漫画は商業誌だ買って読んでくれる読者ありきで成り立っている。そのため、読者が好むような題材やキャラや展開というのは用意しなければならないその中でどう自分の表現したいモノを表現するかが作者の腕の見せ所である。だが、作者も人間だ。「読者はこんな話が好きだろうな」と「自分の主観」で想像する。あくまで作者の主観でしか表現しようがないのだ。そして読者も自分の主観で作品を見ている。そのため感想は十人十色なのだ。「読者の望む展開」を考えるのは「作者の主観」であり、「読者」には「あなた以外の全ての人」が含まれている。つまり「読者が望む展開」など作りようがないのだ。

そして推しの子や呪術廻戦は本当に「読者の望む展開」はなかったのか?そんなことはないだろう。2.5舞台編や澁谷事変など、いくらでも読者の期待以上の展開はあったはずだ。それらをすべて無視して批判しているのは、最初から最後まで自分を満たしてくれるのが漫画という”サービス”だと思っているからではないのか?

最終回とは、全ての伏線が回収され、全ての謎が解き明かされ、全てのキャラが生きていて、世界観は整えられ、主人公の悲願は達成される。そのように思っているのではないか?つまり、最終回はこうあるべきという「正解なる最終回」が存在していると思っているのだだからそれと違うものが描かれるとアレルギーを起こす

 

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(引用:女性専用/著者内田ほなみ)

 

そして「正解なる最終回」のハードルが上がっている。「こういう最終回もありだな」と思う人がSNS上では減った昔は『あしたのジョー』などの”正解”がない最終回が称賛されていた。人の数だけ正解があり、作品的な”正解”が最終回で描かれなかったため、人々が妄想として「たられば」の正解を想像する事が許されたのだ。それこそが名作と言われていた。

読む前に勝手に期待を膨らませて読むのではなく、ありのまま作品を読み、自分の頭で思考し、咀嚼し、解釈し、味わう。これが本来の娯楽なのだそれが無料サービスと時短サービスとSNSによって失われていった。読者の望む展開こそが全てであり、それらをテンポよく濃密に描き、典型的な王道展開で締めくくる。それを読者が勝手に期待している。いや、必ずそうなると思い込んでいる。そうならなければならないとすら思っている。だからこそ「お金を払ってる」のに「望む展開」じゃないからと怒り狂い、作品に没入していた分、ぐちゃぐちゃな感情の整理を作品や作者に求めてSNSで暴れ狂っているのだ。自分で感情を整理できないからこそ、作者に感情を整理できる最終回を求めるのだ。今の読者に『あしたのジョー』のような最終回は耐えられないだろう。

 

 

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⑦ 寛容さという名の我儘

昨今、芯のない人間が増えた。例えばあなたの友人が何らかの悩みを抱えていたとしよう。そこで求められるあなたの対応は、「そっと話を聞き」「共感」し、「きっと大丈夫」と肯定し、ポジティブな気分にさせて「そっと背中を押す」ことだ。何故なら、傷つけてはならないからだ。人の相談に乗るときアドバイスをするとき前提として「ネガティブな気持ちになる事を言ってはならない」「傷つけてはならない」というのが存在する要は「相手を傷つけない」、「不快な思いをさせない」、「相手に嫌われない」範囲の中で最大限相手を慮る態度を取らなければならないのだ。

 

相談者が求めるものは解決策などではなく、共感しながら話を聞いてもらって最後には背中を押してもらう事を求めているのだ。無論、これが悪いわけではない。筆者もそうしてもらいたくてよく相談する。だが、それは優しさとは違うものだという事は念頭に置いておきたい。あくまで相談を聴いた側が嫌われない範囲の中で最大限優しくするというものに過ぎない。「私だったらこうする」などなかなか言えない世の中になりつつある。

それくらいならまだいいが、最近は重要な事も相手をネガティブな気持ちにさせる可能性があるなら言えなくなっているのだ。例えばあなたの友人Aがマチアプなどで性被害にあったとしよう。友人Bがあなたに「マチアプを始めたいんだけど」と相談してきた時に、友人Aの性被害のことを話して注意を促すようなことは言いにくくなってきている。本来、Bのことを思うならAの詳細は伏せてマチアプの危険性を伝えた上で代替案も含めて提案したほうがいいだろう。しかし、そんなことをいうとBがネガティブな気持ちになり、二の足を踏んでしまうから言ってはならないのだ。

 

突拍子もないことを言っているが、事実そのような風潮が醸成されつつある。それが0-100で物事を考える人々の増加だ。彼らにオブラートで包んだ現実の「である」を説くとネガティブな方に100引っ張られる。

例えばあなたの友人が子供が欲しくないと主張していたとする。その理由を聞いたときに「子供は可愛いと思うけど、母親が仕事と家事と育児を全部する奴隷のようだったからそんな風になりたくない」と答えたとしよう。その友人は自分の母親を見て自分はそのようになりたくないと考えているわけだが、これは果たして子供が欲しくないと言えるだろうか?

これは「子供のことは可愛いと思うけど自分ばかり負担になるのが嫌だ」という主張だと考えられる。つまり、子供が欲しくないのではなく、「自分だけが一方的に育児や家事をするのが嫌」ということであり、「育児や家事の分担ができるならば子供は欲しい」という事になる。

要は奴隷のような自分の母親を見た時に、「子供を持つと母親のようになる」と思い込んでいるのだ。本来は違う。「母親を奴隷のようにする相手と結婚しなければいい」だけなのだ。つまり、子供を持つと奴隷になるのではなく、結婚相手を間違えると奴隷になるが正しい。しかし、0-100で物事を捉えてしまうと子供を持つと奴隷になると思ってしまう。

 

この「0-100思考」と「相手に嫌われない範囲で慮る風潮」が合いまったことでプライドの高い人間が増えた。本当に必要な情報や具体策を言われると、「自分の考えに水を差された」「嫌な気持ちになったと、情報や具体策と言った内容は全て無視され、「嫌な事を言った奴という烙印を押されてしまう

無論、グラデーションがある事は言うまでもない。伝え方や容量によって相手に不快感を与えずに真理を伝えることはできる。しかし、それもあくまで本人同士の主観でしか語り合えないので、どこかで傷つけてしまうこともあったりする。距離感を誤ることもある。伝え方を間違えることもある。そんなときに0-100思考だと相手だけが悪者になってしまう逆を言うとあなたも悪者になってしまう可能性もあるのだ。そしてそれらを許し合うこともまた難しい。

 

こういう人間が増えたからなのか、人を傷つけないようにしようねという風潮が強まったからなのか分からないが、最初から「相手を傷つけずに、不快感を与えない範囲の中で相談をしようね、そうすれば嫌われないからね、悪者にならないからね」という前提の下に議論が展開されている。要はお気持ちなのだ。何周も何周も考えて当たり障りのない範囲で喋った方がこの場合だと正解だなと考えているわけではない

単に嫌われない傷つかないネガティブな気持ちになることを言わないという前提があるからその選択を取っているに過ぎない。これは優しいわけでも、気遣いのできる人でもない。単にその時代のベターだ思われている選択に沿って生きていくというもので何の芯もない

 

このような前提の中で育てられた者はみな否定されるという事に慣れていない。ネガティブなことを言われることに慣れていない。その為、「嫌な事をいわれた」と0-100で引っ張られるのだ。こうやってお気持ちで考える癖がついてしまうと「嫌な事」と同時に提示された「情報」や「具体策」などが見逃されてしまう。本来「嫌な事」と「情報」は共存するのに「嫌な事」に引っ張られて「情報」がなかったことになってしまう。言う側はそれをスルーされないように伝えなければならないのだが、お気持ち世界になるとそれもまた難しい。

ハラスメントなどがそうだと言える。上司から「嫌な事だが必要なこと」を言われた時に、嫌な事を言われたとしてハラスメントだと訴える。だが、果たしてそれは正しいのだろうか?自分が上司の立場になった時のことを考えているのだろうか?

もし、自分が上司の立場になり、最大限部下の事情を慮って発言したとしても、部下が「ハラスメントです!」と言えばハラスメントになる。その時、自分はそれでいいのだろうか?そうなると想像できないのだろうか?

要は受け取り手ばかりが慮られて発信者側が慮られることはないただ不快な事を言ったか言ってないかだけで判断されている。これが問題なのは全ての人は発信者になりうるということだ。決して他人事ではない。自分が不快に感じた時は被害者になり、自分が発信者の時は「今どきの若いもんは」と受け取り手を批判する。自分の快不快で簡単に論理と倫理の境界線を越境するのが現代人なのだ。

 

このような、「相手にとって耳の痛いことでも必要ならば言わなければならないことも言えない世の中になっているので、親からも先生からも友人からも叱られたり注意されることが減った。減った結果、自分の感情がぐちゃぐちゃになる事が減った。ぐちゃぐちゃになる事が減ったので自分で感情の整理をすることがなくなった。

自分の至らなさによる失敗や自分なりに考えがあって取った行動のせいで迷惑をかけて怒られた時誰しも感情の整理をするのが難しい時があるだろう。自分なりに正当な理由や考えがあるにも関わらず、その根本を間違ってると注意されたり、考え直さなければならない時は、自分の未熟さや能力の低さ、自分の過ちと向き合わねばならない。

これが感情のぐちゃぐちゃだ。このような経験をして感情を整理し、「ぐちゃぐちゃはぐちゃぐちゃ」「指摘された点は指摘された点」として感情と論理を整理して受容していくことが必要であるそれが人間的成長に繋がるのだ。しかし、叱られたり怒られたり、注意されたり、世話を焼かれたりすることが減るとこのような人間的成長をする機会が減ってしまう。常に機嫌が良い状態が普通の状態となってしまうため、いざ叱られたり、世話を焼かれたり、それこそ漫画で大好きなキャラが死んだときに、その感情のぐちゃぐちゃを整理することができないのだ。

いやできないばかりかその感情の整理を他者に求める。「こんなぐちゃぐちゃな感情にさせた作者が悪いんだ」「こっちだって理由があるのに注意してきた上司が悪いんだ」とその内容を吟味せず0-100で物事を捉え、被害者マインドに陥り、ありもしない責任を他者に当てつけることで感情の整理をしようとする。作品ヘイトがこれだけ頻発し、炎上するのは前述のような社会的な変化と、このような社会教育が減ってきたことで読者自身が幼稚化している所にも原因があるだろう。

 

⑧ 内省できない人々

無料サービスにより、金銭の支払いに対するハードルが上がり、見返りを求める傾向が強まった。時短サービスにより娯楽が娯楽の中身だけを知れればいいという情報と化した。これにより娯楽が人々が満足する情報を与えるだけの”消費サービス”」へと移り変わったのだ。

SNSの発展により自分で感情の整理ができなくても感想という名の自己開示によって鬱憤を晴らしてスッキリすることが可能になった。そして自分の鬱憤と同じ鬱憤ばかりが可視化され共感され拡散されることで、自分の主観を一般論だと思い込み始め、増長し、攻撃的な言葉を発信することで更なる共感を求めるようになっている。

このような背景によって作品ヘイトは生まれ、炎上し、作者が自殺する勢いで誹謗中傷が飛び交うようになってしまった。そしてそれを諫められた時、「称賛を浴びるなら批判も浴びろ」「批判を恐れるなら世に出すな」「ない悪意を汲み取られたとほざくなら読者が納得する話をつくれ」などという幼稚極まりない、「自分の気に入る展開のみを描かなければ殺す」と言っている事と等しい事を宣っている。

 

これらは全て上記のような社会サービスによる人々の認識の変化と前述した叱られたり世話を焼かれたりすることが減ったせいで自分で自分の機嫌を取る事ができない人々が増えているところに原因がある。

このような大人が量産されるのは「相手がネガティブな気持ちになることは言わないようにしよう」「嫌がる事は言わないようにしよう」「誰も傷つかない当たり障りのない事を、当たり障りのない範囲で言って行こうという過度な気遣いを求める方向に社会全体が舵を切っていることに問題がある

勿論、そのすべてを否定するつもりはない。いかに正論と言えど、「言わなくてもいい正論」があるのは承知している。問題なのは、発信者ばかりが「この正論は今の状況だと言わない方がいいかな」「どう伝えられたら相手を傷つけずに真理を伝えられるかな」と受け取り手を慮っていることだ

人間だれしも一言多い時がある伝え方を誤るときがあるそれは受け取り手のあなたが発信者に回った時かもしれないだからこそ、発信者を許す、慮る、発信者の真意を汲み取ることが、受け取り手には必要なのだ。だが、今では受け取り手が発信者を慮ることはない。「自分が発信者になった時に同じことをしてしまうかもしれないな」と思う事はない。だから一方的な被害者マインドで好き放題「ハラスメントだ!」「距離感バグってる」「一言多い」と発信者を批判ばかりする。

そういった者たちが増えてるからこそ、過剰なほど受け取り手ばかりを慮るのが常識になっているのだ。無論、最低限のプライバシーやオブラートにつつむ配慮、言わなくてもいい正論などは存在するし、それは発信者なりの主観で受け取り手を慮った対応をしなければならない。しかし、全てのことにそれを適用したら誰も注意できず、本音を話せず、本人のためになることを言えない。本来、言う側は言い方を気を付けて言えばいいし、言われた側はネガティブな気持ちに引っ張られずに、その内容を吟味し内省すればいいだけである。

しかし、0-100で物事を考えてしまうとそれができない。注意されたり、アドバイスされたり、世話を焼かれた時にその内容ではなく、気持ちで考えてしまうため、嫌な気分になれば「ハラスメントだ!」「そんなこと言われたらやる気失せるでしょ!」とキレ散らかす。

本来、その「嫌な気分」と注意された、アドバイスされた「具体的な論理」は別物で共存するのに、それを整理して分離して共存させる機会が失われた現代では一方的にアドバイスした側が悪者となってしまう。

 

これらは全て「当たり障りのない範囲で、当たり障りのない事を言おうね、何故なら人がネガティブな気分になる事は悪い事だからと受け手側だけを慮るのが常識となっているからだ。

無論、元々感情と論理を切り離すのが苦手な人はいる。元々0-100で物事を捉える人はいる。例えば女性に虐められたら女性全体が憎くなる人がいる。それは仕方のない事だろう。筆者もそのような経験をしたらそう思うと思う。だが、同時に全ての女性がそうではない事も頭では分かっているのだ。

例え女性側から女性の本音の嫌な部分を伝えられたりしても、建前で自分に優しくしてくれたらそれはそれでその女性の一面に過ぎないと考えれば女性全体に対する嫌悪感も多少は減るだろう。本音と建前は共存する。「この優しさは営業かもしれない」と思うだろうがその一方で「自分の事をどうでもいいと思ってたら建前でも優しくしないよな」と相手への認識を別の角度から見る事で嫌悪感が和らぐ。嫌悪感を感じない一面を探す事が重要なのだ。だが、0-100で物事を考えてしまうとそれは難しい。だからこそ、感情と論理を別々に整理して認識する事が重要なのだ

 

結局のところ作品ヘイトが生まれる原因は

  1. 娯楽が「中身を知る為だけに消費される"サービス"」と化した
  2. 無料サービスによる普及によって見返りを求めて娯楽を消費する事が当たり前となった
  3. SNSによって鬱憤を気軽に晴らせて、共感される事で主観が一般論だと勘違いするようになった
  4. 叱られたり、世話を焼かれる事が減ったので、自分で感情を整理できなくなり、他者に当てつける事で整理するようになった
  5. 何故、叱られたり世話を焼かれる事が減ったのかというと「当たり障りのない範囲で人と関わるのが良いことだ」という受け手ばかりを慮る思想が常識となったからだ
  6. それが常識となったことで、論理と感情を切り離して考える事ができる人間が減り、お気持ちで全てを判断される社会になってしまった
  7. お気持ちで全てを考えるので、不快な気持ちになるアドバイスをされた時に、「不快な事を言われた」と認識し、「アドバイス」はなかった事にされてしまう
  8. 「不快なアドバイスをする人」は「不快な気持ちにさせた人」と認識され、「相手の事を考えて、嫌われていい覚悟でアドバイスをしてくれた人」という認識にならず、「ウザい上司」や「支配型のお節介」や「ハラスメントをする人」と烙印を押されてしまう
  9. これらを回避する為に、当たり障りのない事しか言えなくなった
  10. その結果、全ての人が自分だけがいつでも逃げれる"半身"で接するようになった
  11. 自分の発言に責任を持たなくなった
  12. 人に嫌われてでもその人を想って何かを伝えるという事がなくなった
  13. 表面的な共感と肯定とアドバイスと励ましこそが、友情であり、愛情であり、尊重であるとされ、耳に痛い事を言う人はハラスメントとされてしまう
  14. その結果、叱られたり世話を焼かれる事が減った為、自分で自分の機嫌を取って、「アドバイスはアドバイス」「不快な気持ちは不快な気持ち」と割り切る事が出来ない人が増えた

 

このようなお気持ち思想の蔓延と時短サービスや無料サービス、SNSの発展による娯楽の変化や意識の変化によって作品ヘイトは生まれ、作品ヘイトをするような人々が量産されていったのだ。

 

⑨ 作品ヘイトが大嫌い

筆者は作品ヘイトが嫌いだ。大嫌いだ。彼らはあれだけ作者や作品を批判する癖にその根拠は「自分の気に入る展開じゃないから」といえるものばかりだ。不満を持たない筆者からするとそんなヘイトは到底受け入れられないのだ。せめて「推しの子の黒幕の登場の仕方が納得できなくて不満に思えた」などの客観的かつ論理性のある根拠なら納得できるのだが、彼らにそのような論理性は見られない。何故ならただの感情論だからだ。ただの感情論なら感想として主張してくれ。その方がこちらとしても気にならない。何故なら感情論に根拠など必要ないからだ。ただの感想なんだからありのままの感情をさらけだせばいい。

だが、彼らヘイタ―達はそこに根拠を紐づけたがる。その感情論に根拠を持たせようとする。何故なら自分の誹謗中傷に正当性を持たせたいからだ彼らがやってるのは感想の範囲を超えた誹謗中傷であり、それに正当性と公平性を持たせるために、あれやこれやと根拠をつけたがるがその根拠が全て感情論なのだ。だから幼稚な意見に見えてくる。感情論なんだから感情的になって感想をそのままさらけ出せばいい。それなのに「○○編からクソ漫画と化した」や「露悪的な表現をしている」など、「自分の気に入る展開じゃなかったから」と言えるようなものしか根拠に出来ない。だからこちらも腑に落ちないのだ。何故ならその感情論の根拠が「自分の気に入る展開じゃないから」という感情論だからだ。ただの感情論なのにいかにも正当な根拠があるかのような主張をしているから嫌いなのだ。そんなに自分の読みたい話を読みたいなら自分で漫画を描けばいい。漫画を単に自分が読みたい話が必ず掲載されているサービスだと思ているのだ。

 

七海健人が死んだら作者は露悪的な人間だというし、五条悟が死ねば作者は読者の嫌がる事をわざと描いてるなどと言い出す。そらそのシーンを描いてるんだからわざと描いてるんだろうよ。ただし、物語の整合性を重視した結果な。その美しい死やその死がもたらす影響を微塵も考えず、ただその部分だけを汲み取り作者を攻撃する姿は見ていて気分が悪い。本人たちはそれが正当な主張なんだと思っているのだろうが、結局言っていることは「自分の気に入る展開じゃなかったから」「自分の好きなキャラが死んだから」なのだ。そもそもそのことで作者や作品に噛みつくこと自体が極めて幼稚な発想である。その描写をありのまま受け入れればいいだけなのに、その描写によってぐちゃぐちゃになった感情を昇華できずに作者や作品を攻撃することで整理しようとする、鬱憤を晴らそうとする。その憂さ晴らしに無理やり堅苦しい言葉で理由付けをしようとしているところも見てられない。理由付けなどできるわけないのに理由付けをしようとするから根拠が全て感情論と言えるものばかりになる。彼らはそんなことも分からないのだ。

彼らの恥ずかしい所は、自分の主張とその根拠が本当に世に出して恥ずかしくないものだと心底思っている所だ。彼らが根拠とする物の殆どは感情論なのに、それが通用すると本気で思っている。先程も言ったが感想ならば問題ない。だが、彼らは感想の範囲では自分の鬱憤を出しきれないので、主観的な感情論を根拠にして誹謗中傷する事で憂さ晴らしをして心のバランスを取っているのだ。

 

ここまで来るともはや病気である。

自分で機嫌を取ったり、ニュートラルな気持ちで過ごすのではなく、何か不快に感じたらSNSで晒して憂さ晴らしすればいいと考えている。それに何の疑問も感じず、人々へ不満をぶつけたり、お気持ちで物事を0-100で考えてしまうのは、社会の変化や躾の有無もあるだろうが、これはむしろ病気と捉えた方がいいかもしれない。

国も病気

政府も病気

国民も病気

価値観も病気

人間関係も病気

心も病気

みな病んでいるのだ。

その原因は何を隠そう、我々自身にある。我々が自らの問題と向き合わず、娯楽に流れ、思考停止し、ただその日その日を仕事と趣味に生きられればそれで幸せ、それ以外は切り捨てていい、不満があればSNSで垂れ流せばいい。そんな事を繰り返すうちに、我々は自分の頭で考えたり、心で感じたり、打ち解け合う事を忘れていった。それをする為にはセンシティブな話もしないといけないし、時には傷つく覚悟で言いづらい事も言うような事を繰り返して、傷つけたら許し合う事で人間関係を醸成していくしかない。しかし、今ではそれをしなくてもSNSやソシャゲやマチアプでセフレ作ったりすることで即物的な快楽を摂取する事が可能になってしまった。それ故に我々はこの中毒症状から自力で脱出する事が困難になっているのだ。自らの病に気づく事ができない。だからいつまでも自分の機嫌は外に出して憂さ晴らしをするという事を辞められず、自分がやっている事がそういうものだと理解することもまた難しい。

 

⑩ お気持ちに引っ張られる人へ

何故、彼らは自分で自分の機嫌を取らないのか?それはお気持ち世界になっているからだ。嫌な事があれば「自分以外の何かに原因がある」という究極の他責思考が蔓延している。それというのも「君は悪くない」などと言う優しい言葉で若者達を甘やかす事を続けてきたからだ。「結婚できないのは経済環境のせい」「年収が低いのは家庭環境が悪かったから」「引きこもりになったのは学校が悪かったから」など、「至らないものには至らないものなりの理由がある」という甘い言い訳のもと、ありとあらゆる主義主張を多様性や尊重の名の下に受け入れてきたからこのような思想が蔓延っているのだ。

これは「泥棒には泥棒の事情がある」という主張に過ぎないいかなる事情があれ「泥棒をした者が悪い」という事が言えない世の中になっているそんな事を言おうものなら泥棒以上に悪人扱いされるからだ。だからみな腰が引ける。悪い事は悪い事なのに、間違ってる事は間違ってる事なのに、世の中には絶対的なものもあるというのに、「考え方が違う」「価値観が違う」「時代が違う」と言ってワガママを受容してきた。そして根拠とばかりに「〇〇大学の〇〇教授が言ってた!」「最新の研究だと努力できる遺伝子を持つものと持たないものがいる」などと根拠を紐付けたがる。「だから出来なくても仕方ないんだ」「だからやらないんだ」「だから頑張れないんだ」「だからアイツは頑張れるんだ」と主張している。このような者たちを放置し過ぎた結果、話し合いのできない者達が量産されていったのだ。

 

確かに泥棒には泥棒の事情があるだろう。だが、同じような事情を抱えながらも泥棒をせずに必死で頑張ってる人達の方が遥かに多いのだ。にも関わらず泥棒を働く者は「自分が悪いんじゃなく、経済や社会や時代が悪いんだ」などと言う。そして一番の問題はそれに対して否定的な事を言えない事だ。もし、泥棒の意見に否定的な事を言おうものなら「差別だ!」「物事を一面して見ていない!」「自分が同じ状況でも同じ事が言えるのか?!」などと糾弾されてしまう。だから何も言えない。悪人に甘い現状も、弱者を甘やかす風潮も、どこかおかしいと思っても誹謗中傷される事を恐れて何も言えなくなっている。要するに保身である。

確かに物事には明確に白黒はっきり分けられないものもある。グラデーションはあるし、グレーだからこそ柔軟に対応できるし許されることもある。それは筆者も重々承知している。しかし、同時に絶対的なものもあるのだ。これは物事を多面的に見ていないのではない。「物事を多面的に見たけど、やっぱりそれはワガママだよ」と何周も何周も考えた結果、「やっぱりそれは黒だよね」という話なのだ。もちろん一面しか物事を捉えずに断定的な言い方をする者もいる。そう言った者は一面でしか捉えていないものだろう。しかし、言い方に含みがあったり、考え方に多面性を感じたならそれは多面的に多角的に捉えたうえで、「白は白、黒は黒」と言い切っているのだ。ところが今の人たちは「言い切った」言い方だけを汲み取り、「一面でしか物事をみていない」と判断し、「ハラスメントだ!」なんだと糾弾してくる。それは「泥棒には泥棒の事情があるから、彼だけを責めるのはおかしい」というような生易しい主張のみが善とされ、それに異を唱えようものなら泥棒以上に悪人扱いされる風潮により、「当たり障りのない範囲で物事を喋ろうね」という思想に落ち着くようになったからだ

本来、「泥棒の事情は、選挙などでみんなで社会を良くする事で改善していこう!」というアプローチで解決するしかないのだ。「泥棒の事情」によって罪が極端に軽くなったり許されたりしていいわけではない。だが今では真逆のことをやっている。「事情があるんだから泥棒しても仕方ないよね」という風潮になっているのだ。彼ら過激なフェミニストリバタリアンはそのような思考回路の下に行動している。だから女湯に肉体的には男性の人間が入っても良いと言うし、旅客機にペットを放し飼いしてもいいと主張する。それが漫画の場合は「”読者”が不快に感じるような描写をする作者は性格が悪いんだから叩かれて当然。むしろ称賛を受け取るなら批判も受け取れよ」などと言って誹謗中傷するヘイトとして表面化していると言える。

 

このような思想が蔓延した事で、注意する事も叱る事も、世話を焼く事もできなくなった。それをやれば「差別主義者」「ハラスメント」「支配型のお節介焼きだ」などと言われる始末だ。その事を分かりやすく表現しているのが以下の漫画だ。

 

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(引用:無頼伝涯/著者福本伸行)

 

以前はこの老人の様な口うるさい世話焼きな大人が沢山いた。その結果、間違ってる事は間違ってると矯正してもらえたのだだから考え方に均一性があったそれは全ての人間が同じ考えでなければならないというような言論統制のようなものではなく、みながお互いを慮る思考回路を持つような矯正だったのだ。

だから言った側、言われた側、両方が相手を慮る事ができた。だからハラスメントだとか言われる事がなかった。昔の方が寛容だったのだ。今はその寛容さは失われている。単に言われた側が自分の快不快で物事を判断し、声を上げれば「あぁ、可哀想に、それは仕方ないよね、相手が悪いよね」と共感してもらえる、味方になってもらえる世の中なのだ。例え本人が間違っていたとしても、間違えた本人よりも「間違えた人間を注意した人が悪い!」「間違えた人に叱るのは酷い!」という「甘やかし」を放置したから注意することや、叱る事、世話を焼くことができなくなった。その結果、「自分と異なる考え方」に触れることがなくなり、注意されると「自分の考えを否定された」と感じるようになってしまう。そんな人間が増えすぎたのだ。

 

今は、「主義主張が一貫性があり、論理性があり、社会通念に沿っているか」などは全く考慮されず、ただ「言われた側の主張のみ」が受け入れられるような世の中になっている。先に声を上げた者が勝つのだ。論理や一貫性よりもお気持ちで社会のルールを決める世の中になってしまっている。注意されず、叱られる事もなく、世話も焼かれないのだからやりたい放題だ。その結果、他人に自分の感情を当てつけても、それが誹謗中傷だと自制を呼びかける事ができなくなった。何故なら、「この人がこんな気持ちになったのは、このサービスのせいなのよ!」というヒステリックなワガママを「うんうん、そういう考え方もあるよね」と受け入れてきたからだ。本来、会話とはお互いが相手を慮るから成り立つのである。それが上記のような思想を受け入れ続けた結果、失われてしまった。

 

作品ヘイトにしてもそうだ。確かに作者や作品にも欠陥はあるだろう。完全無欠なものが存在しないように、漫画自体にも構造的な問題はある。しかし、殆どの人はそんなもの気にならない。何故なら良い部分もあるからだ。五条の死もルビーのダイジェストにも意味はあるのだ。

しかし、彼らヘイター達には作者の事情や作品の完成度など関係ない。自分の期待通りの内容か、自分を満足させてくれるかどうかだけが重要なのだ。自分が満たされなかったり、不快感を感じたら、それは作者が悪いと言い出す。自分以外の感想があるなど露程も考えないのだろう。

 

と言うか、ポジティブな事しか耳に入れたくないのは当然ではないだろうか?

友達の間で作者を悪く言うならまだしも、不特定多数の人が目につく所に根拠のないネガティブな感情論を、一般論かのように一方的に吐き出すのは、端的に言って大人気ない。

もし、あなたの周りに口を開けば取引先の人の事を悪く言ってばかりの人がいたら、その人の事を嫌な人だと思うだろう。それを自制するのがマナーなのだ。人の悪口を言う時、ある程度のレベルまでは「それは相手にも問題があるよね」も肯定的に受け取ってくれるが、度を越すと「毎日誰かの悪口を言ってる人」に見えてくる。結局、自分にとってマイナスなのだ。だからこそ、悪口は程々じゃないといけない。同様にネガティブな感想も程々じゃないといけない。耳の痛いアドバイスも程々じゃないといけない。だが、その程々はもう守られてはいない。悪口は程々じゃなくなってるし、耳の痛いアドバイスは程々じゃなくなってるし、アドバイスを受け取る側も程々に受け取る事ができなくなっている

 

全ての人がお気持ちで考えるようになっているから程々に受け取ったり、相手の事を慮る事もなくなった。その結果、幼稚なヘイトで溢れかえるようになったのだろう。セクハラやパワハラなどは、言い換えるなら痴漢やレイプ、イジメなのでそれらは存在すると思うし是正していくべき問題だが、モラハラやマルハラなどは、単に受け取り手の問題である場合も多いだろう。というか殆どそうではないか?

その延長線上に作品ヘイトがある。単に感想として不満を曝け出すのは構わないがそこに幼稚な根拠を付け足して誹謗中傷しているのは見ていて気分が悪い。そんな連中に「読者」として一括りにされているのも気分が悪い。そして作品ヘイトをしている者たちは自分がやっている誹謗中傷が感想の範囲だと思っている所も気持ち悪い。他人には「感想なんだから受け入れろ」と言う癖に、反論されたらヒステリックに言い返してくる所も気分が悪い。もはや知能指数が低いとしか言いようがない。頭も心も未熟なのだろう。その未熟な連中に君は悪くない、そんな事情を作った社会が悪いんだ、君は君のままでいいと甘やかすからいつまで経っても是正されていかないのだ

今一度、彼らは思い出すべきなのだ。その「感想」という名の「誹謗中傷」によって、りゅうちぇるさんや芦原妃名子先生や雪永ちっち先生を殺した事を。我々はたった一つの言葉が人を殺す武器になり得る事をよく理解する必要があるだろう。

 

上記のような悲劇が繰り返されないよう、焼石に水をかけ続けるのが筆者のような大人の役割だと思っている。決して、「当たり障りのない範囲でアドバイスしようね、何故なら人を不快にさせるのは悪い事だから」と、いつでも逃げられるように遠い所から甘い言い訳を並べて0-100で物事を考える人間を甘やかす事ではない。それは優しさとは言わない。気遣いとは言わない。何周も何周も多面的に考えた結果「当たり障りのない事を言うのがこの状況だと相手にとってベストだ」と判断したわけではない。

単に自分が嫌われない範囲で、相手を不快にさせない範囲で、寄り添ったフリをしているだけだ。ただの建前なのだ。だが、今は耳の痛い本音より、耳心地のいい建前が優先される社会になっている。耳の痛い事を言う者は悪者扱いされるから、「本当はこれを伝えた方がいいんだろうな」と思っていても腰が引けて伝えられなくなっている。

その結果、相手が傷ついても「自己責任でしょ?」と逃げられるから、みな距離を縮めて、嫌われてでも相手の為に何かを言う事が出来なくなっている。そんな状態から言われる建前に何の意味があるのだろうか?

時には耳の痛い事を言われる事も必要だろう。時には不快に感じるアドバイスも必要だろう。不快に感じたなら不快に感じたで構わない。だが相手のアドバイスや本音もしっかり理解して自分に落とし込む事もまた必要なのだ。それが出来ないからいつまでもお気持ちだけで考えてしまう。いくら自分を守ろうとしても永遠に守る事はできない。どこかで自分と向き合わねばならない。アドバイスを受け入れなければならない。現実に向き合わねばならない。その時に必要なのは、観客席から嫌われない範囲で耳障りの良い事ばかりを言う野次馬のような友人ではなく一緒にスタートラインに立って真剣に自分に向き合ってくれる熱苦しい松岡修造のようなコーチ的な「ウザい友人」なのだ。ウザいお節介さんが減った世の中だからこそ、本音を教えてくれる人は貴重なのだ。もし、自分の周りにそんな人がいたらその人を大切にすると良い。あなたが世界を敵に回しても何らかの形で支えてくれるはずだ。

この記事を読んだ人は、自分の家族や友人や恋人のウザいお節介さんになって欲しい。それこそが距離を縮める唯一の手段であり、大切な人を守り支える方法でもあるのだ。

 

最後は漫画とは関係のない話になったが、筆者がこの記事で伝えたいのは、「人は見たいようにしかものを見ない」と言う事だ。だからこそ視点を増やすのは大切な事だし、それはTikTokや倍速視聴などの思考停止する娯楽の中では育まれないものである。それ故に耳の痛い事や自分がネガティブな気持ちになる事を言ってくれる人は貴重なのだ。そういう人がいたら大事にして欲しいし、あなた自身が大切な人の"ウザい人"になる覚悟も必要だと覚えておいて欲しい。そうやって人にまみれていく事で成長していくのだ。自分が不快感を感じない世界にいたら何の成長もない。作品ヘイトや過剰なハラスメントの正体というのはお気持ち優先社会が生んだ現代病なのである。

 

 

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以下の有料部分は個人的な感想と想いを綴ってるだけですので、本記事と関係ないです。

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