spriteの考察日誌 ONE PIECE考察

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せっかちが多くなってるらしい

 

 

 

 

近頃、人間はせっかちになってるらしい。

 

 動画は1.5倍速視聴が当たり前。映画などは映画館には行かず、ネタバレを見て、サブスクで1.5倍速視聴するそうだ。

 聴くところによると、楽曲のイントロも昭和から平成までは平均17秒あったものが2021年以降急激に短くなり、今では平均6.3秒となっているらしい。

 情報量もネットの普及に伴いとんでもない速度で、とんでもない量の情報が我々の脳や心に流れ込んできている。現代人一人当たりの1日に得る情報量は江戸時代の1年分、平安時代の一生分だそうだ。

 それだけの情報量が入ってきたらいちいちすべてに目を通すわけにはいかない。冒頭の数行にだけ目を通し、有意義でなければ閉じて、有意義であれば軽くスクロールしながら流し見して必要そうな部分だけ拾おうとする。

せっかちにもなるというものだ。

 

 

 サブスクなども収益につながる再生時間が定められているため、イントロで人を惹きつけ、すぐにAメロBメロに移っていくことでスクリーミングを稼ごうとする。

 記事もそうだ。冒頭で結論や解答を提示しなければ、一瞥すらされない。そのため全文を読まなくてもいいように、予め冒頭でもう結論を打ち出しておき、その根拠や証拠などを一目で全てはいるように箇条書きのようにまとめて打ち出しておく。

ここまでしてようやく読まれるかどうかだ。

何を隠そう、当ブログもそのような書き出しで漫画の考察記事を書いている。

もうここまで書いている時点で、ここまで読んでいる読者はごくわずかだろう。このブログの1日の平均アクセス数はおよそ150件前後だ。その中でここまで読んでいる人は恐らく1人いるかいないかだろう。

 

 

 つまり、現代人は情報の取捨選択を高速ですることが当たり前になっているのだ。

 YouTubeの動画などがそのいい例だろう。視聴者のうちおよそ50%から60%の約半数が冒頭の30秒以内に離脱する。その動画が自分の知りたいモノでなければ閉じるし、食指に合わなければ閉じる。

 別に悪い事ではない。動画を見るというプライベートな時間を我慢して「これも勉強だ」と思いながら視聴する必要は一切ない。

高速で取捨選択をするのは当たり前のことなのだ。

見方を変えれば頭の回転が速いともいえる。

だが、同時に疲弊もしているともいえる。

 

 

 毎日毎日、平安時代の一生分の情報量を処理し、仕事もこなし、多様性や寛容さを意識しながら相手を傷つけないよう配慮し、世間から見て多様性に理解のある人間を演じながら、SNSでは人々の不平不満を目にして、自分の愚痴や意見をつぶやこうものなら心無いリプが返ってくる世の中で炎上しないように注意を払い、そんな中で蔓延する性病と不同意性行罪に怯えながら、恋人を作り、結婚し、育児もこなさなければならない。そこにのしかかる増税と物価高と社会保険料の数々。

 

こんな中では子供を持つメリットがあるのかないのかという尺度になってしまうのも分かる気がする。

人々が疲れ切った頭でぼーっとSNSを1日中見てしまうのも分かる気がする。

 

 

 この現状を打破するための政治には期待できない所がさらに将来に暗い影を落とす。

現在の日本は民主主義の皮をかぶった専制君主制である

選挙に立候補しようにも数百万円にも及ぶ供託金と当面の生活費が必要だし、当然投票してもらうための票田も必要だ。よしんばそれを乗り越え、当選したとしても数百人いる考え方の違う人間を納得させ、自身の進める法律や政策を推し進めねばならない。

それだけではない。裏金疑惑や過去のあったか定かではないデマや報道、国政と全く関わりのない議論に加え、他の議員からのバッシングと追及を潜り抜けねばならない。

秘書からの密告、パパラッチ、他議員からの追及、信頼していた議員の不祥事。

選挙時のマニフェストなど無視した法案の数々。

 

はっきり言うが今の日本は民主主義ではない

 独裁者を民主的に選んでいるに過ぎない。そして選ばれた人間はマニフェスト通りの政策など一切しない。そもそも他人を代表者として選んでいる時点で自分が必要としている政策が実現することなどあり得ないのだ。

自分たちの生活の決定権を他者に委ねるという点では民主制も専制君主制もさしたる違いはない

 

 考えて欲しい。立候補する人間は金持ちではあるものの、国政に向いているかどうかは分からない。金を稼ぐ事と、国を動かす事は全く違う能力が要求されるからだ。

そればかりかこの民主主義とは、犯罪者である暴露系YouTuberが当選してしまうシステムなのだ。

 これは別にガーシーに限った話ではない。アレはたまたま犯罪者がYouTubeというプラットフォームで発信したから墓穴を掘っていたが、バレてないだけで何らかの犯罪に手を染めている人間が立候補していたとしても我々には分からないのだ。要は犯罪者であれ、国政の能力が低い人間であれ、その正体を隠して弁舌がたてば、国会議員になれるシステムなのだ。しかもそんなのが数百人もいる。おまけにその数百人は、結果を残さずとも、議論中に昼寝をしても何のペナルティもない。

 その議論も「あなたはどこで何をしたか?」とか国政とは全く関係ない、足の引っ張り合いをしているだけだ。有権者に「この政治家は議員に相応しくない」と認識を持ってもらいたいからやってるのだろうが、どうせ与党と野党がひっくり返っても同じ事の繰り返しを想像させるだけでマイナス効果しかない。

 つまり、日本の民主主義とは犯罪者、または政治の能力が低く、庶民の金銭感覚から大きく乖離した金持ちに、自分たちの生活権を委ねているのと同義なのだ。

これなら、優秀な人間が上に立ち、打倒の対象が分かりやすい専制君主制の方がまだマシかもしれない。

 

 

そして、これらの負の側面から生まれる怨嗟の声がSNSでは毎秒ごとに噴き出している。

 

つまり、何が言いたいかというと、

今、この国は病気なのだ。

 

国も病気、国民も病気、社会システムも病気、価値観も病気、司法も病気、心も病気。

病んでいるのだ。

 

 

 車などで街を走っているとよくわかる。

歩く人はだいたい他人を押しのけるほどの早歩きか、イヤホンをしてだらだら歩くか、千鳥足でスマホをいじるかだ。

バスを待つ人、電車の中の人、公園にいる人、だいたいの人がスマホをいじっている。

そのスマホの中にあるものは怨嗟あふれるSNSだ。

 

 みな不平不満はある。今までは知人友人の愚痴を聞き、自分の愚痴を聞いてもらわねばならなかったが、今ではSNSに好きな時に好きなように吐き出せる。

愚痴の吐き出す手段が簡単になり、吐き出しやすくなった一方で、自分とあまりに違う価値観に触れる機会も多くなった。

 そして人は欠点を直そうとする生物だ自分と違う価値観を「直そう」としたり、違う価値観を「間違ってる」と断じたりしようとするのだ。それが炎上となってトラブルが起きる。

 人は共感する生物だ。他人の痛みを自分のように捉えることで自身を戒め、集団を崩壊させないように本能が働くのだ。そのためSNS他人の愚痴や痛みを目にすると自分のことのように感じてしまう。それが例え1ミリでも自分と関係のない事だったとしても、どうしても共感してしまうのだ。

 ここで言う共感とは、「分かるわぁ、私も経験ある」と言ったものだけでなく、「未経験」でも「他者の愚痴や痛みを理解しようとする」「この投稿を読んで理解しようとする」ことでも共感とは起きるものなのだ。

 

 このようにSNSで自他ともに不平不満を吐き出してスッキリしやすくなったと同時に、他者の不平不満に無意識レベルで、極めて弱いレベルで、だがわずかに、そして確実に、他者の負の感情に共感し、それを「間違ってる」と思い込み、「直そう」としてしまう。

だから疲れてしまうだから病んでいくのだ。

 

 

 そしてこの環境に慣れ過ぎてしまったことで、家でも外でも時間があれば、いや無くても勝手にスマホを見てしまう。

別に悪いとか言ってるわけではない。昔から外で読書する人がいたように、時間を有効に使う手段が、会話から読書、読書からスマホに変わったに過ぎない。

当ブログもそういった病院の待合所などの待ち時間に執筆していたりするので筆者も人のことを言える立場ではない。

 

 

 ただ、そのスマホの中にある世界は果たしてあなたの世界を豊かにするものだろうか?

もちろん仕事で見ている人、ソシャゲをしている人、思い出の写真を見ている人、十人十色だろう。

だが、なんの目的もなくSNSを見ている人、あなたの目の前に広がる風景は、街並みは、人々は、本当に価値のないものなのだろうか?

 ふとした瞬間、ビルに沈む夕日を見て美しいと思ったり、ベビーカーを押すお母さんを見て立派だなと思ったり、スーツを着ている人を見て優秀そうだなと思ったり、世界を見ることで、あなたの心に沸き起こる感情、妄想、想像は、本当に怨嗟あふれるSNSより価値はないのだろうか?

 そんなことないはずだ。この世界を見て美しいと思えるのは人間にしかない感情である。自分のその感情に名前を付けて、その感情の起源について哲学する時間は何物にも代えがたい時間ではないだろうか?

 

 

 仕事の空き時間、電子レンジで温める時間、食事が来るまでの時間、人が来るまでの時間、ありとあらゆる空き時間にスマホをいじる人が増えた

この本質は、「出来ることの拡張性だ」

昔は会話をするか、読書をするか、夢想するかしかなったわけだが、スマホがあれば動画の編集ができる記事が書ける広告が打てる宣伝ができる仕事ができる

 つまり、昔は空き時間という文字通り脳のインターバルがあったわけだが、今ではその時間すら何らかの仕事なり、生産することに使ったりしている。

だから疲れるのだ。だから病むのだ。だからせっかちになるのだ。

 

 

 せっかちだから直ぐに答えを知ろうとする。せっかちだから空き時間に生産しようとする。せっかちだから動画などで関係ない話が始まるとスキップする。

筆者はこれが非常に切なく感じる。

 例えばあなたが漫画の考察動画を見ていたとしよう。(漫画の考察動画とは漫画の先の展開を予想することを指す。)

その会話の最中に話が脱線し、発信者が人生観を語り始めた時に多くの人が動画を閉じるかスキップするだろう。しかし、その中に現実世界のあなたの心を救う思考があるかもしれない。あなたを救ってくれる言葉があるかもしれない。

無論、全く関係のない他作品の話を延々と話し始めたらスキップするだろうが、他者の哲学というのは、自分自身を救ってくれることがある。哲学的な思考を捨てる、あるいは得る機会を放棄するという事は将来の自分を殺すことに等しいとさえいえる。

 

 

 

 今は少し調べればほしい情報はすぐに出てくる。そのため答えだけ早くほしくなるのだ。結果的にせっかちになる。

だからブログなどは冒頭の数行しか読まれないし、動画もほとんどが冒頭の30秒以内に離脱する。でもその中に、本筋とは関係なくても今の自分を救ってくれる言葉があったら?

 

 こんなことを言うとほとんどの人が時間の無駄だというだろう。答えが欲しくてその記事や動画を見てるのに関係のない話は無駄じゃんというだろう。

だがSNSとは違い創作物に含まれる価値観や思考や哲学はその人の本質である。

少なくとも動画の編集の際にカットしなかったという事はそれは伝えたいことなのだ。それが簡単に不平不満をアウトプットできるSNSとの大きな違いだ。

 今はそれを嗜む余裕すらないのだろう。いや、無駄だと思っているのだろう。

ではどこで他者の価値観や哲学を自分にインプットするのか?触れるのか?怨嗟渦巻くSNSか?

だがそれは簡単にアウトプットできる分、一過性の感情的な思考や哲学であることの方が多いだろう。

 筆者は思うのだ。その一見ただの無駄話のように思える哲学的な話にこそ尊い価値があるのだと。無駄こそが心を豊かにするのだと。

 

 

 

 無駄な事でも自分にとって大切な事であればやればいい。耳を傾ければいい。そういった無駄の積み重ねによって人というのは豊かになる。いろんな視点を持つからだ。

逆に今の自分に必要ないと思う事でも、後々に将来を左右することにつながるかもしれない。そのためには哲学的な話が出た際に、無駄なことだと切り捨てないようにして向き合う必要がある。

 だから、もし時間に追われていないならSNSではなく動画の最中の脱線話や、哲学的な記事にも目を通してしてほしい。

空き時間にSNSで不平不満を言ったり目にしたりするのではなく目の前の世界を感じてほしい。他人の不平不満や「こういう価値観が妥当性が高く、最多票をもつだろ?」というような投稿よりも、あなた自身の感情を大切にしてほしい

それはSNSではなく世界をみることで、その光景に想像力を働かせることで、あなたの感性は豊かになる。世界の見え方は大きく変わるのだ。

心の豊かさとはスマホの中だけではない、世界にあふれているのだ。

 

 

 人生に意味なんてない。筆者にとって大切なものが、あなたにとって大切ではないように、幸福や心の豊かさとは相対的なものではなく、絶対的なものなのだ

筆者がこんな記事を書いているのも、人によっては無駄な事だろう。

同様にあなたが好きなサッカーや野球、アイドルやTikTok、インスタのインフルエンサー、ブランド物や高級車やヤンキー的な名声、社会的影響力なども私にとってはゴミほどの価値もない。

そう、人のやることなど突き詰めればすべて無駄なのだ。

だからこそ、人生の意義は、人生の価値は、自分で定義する

無駄な事、つまり思考や哲学に自分で意味を持たせることが大切なのだ。

 

 

 幸福とは絶対的なものだ。だがSNSを見ると自分より金銭的に、社会的に豊かな人が多い。そんな人を見るとそれが正しいことのように思えてしまう。そんな人が言う事の方が正しく思えてしまう。自分もそんな風にならなくちゃいけないと思ってしまう。

 だが、幸福とは絶対的なものだ。SNSのせいで他人の生活が簡単に分かるようになった結果、自分と比較することもまた簡単になったのだ。だから比べてしまう。

しかし、他人と比較したところで待ってるのは、ただの劣等感と自己否定感だけだ。

他人と比較する事を続けていたら、持続的な幸福を手にすることは困難である。

 成功者にとってあなたが何の価値もないようにあなたにとってもまた、社会的な成功など何の価値もないのだ。

 

 そんなことよりも、山に沈む夕日を見て美しいと思ったり、他愛もない話や、自分の話したいことを聞いてくれる友人がいることの方が遥かに大切である。

それは、そんな友人を持てたのがラッキーなのではない。その友人が良い人だから友人になってくれたわけでもない。

今、いろんな苦しい思いをしてきて何の価値もない何も生んでいないあなただからこそそんな友人に恵まれたのだあなただから友人になってくれたのだ。

趣味で繋がるSNS上の友人でもそうだ。その友人が良い人であり、共通の趣味が素晴らしい物であるというのは当然だが、あなたが一歩踏み出してSNSをやっていたから、あなたがSNSで何かを発信したからその人に出会えたといえる。

この人に会えたから運がよかったのではない、この人に出会えた自分で良かった

自分だけが自分を肯定できる。愛すことができる。自分が自分を救うのだ。そこに他者との比較など一切関係ない。他者が介在する余地などない。

 たとえあなたが何も手にしてなくても、あなたが最後の最後に、ほんの一瞬でも自分を肯定することができたなら、あなたの人生は価値があったと言えるだろう。

 

人生に、無駄なことに、意味を持たせることができるのは自分だけなのだ。

そしてそれはSNSで人の怨嗟や成功者の価値観に影響されていたら絶対にできない。

 

 

 だから哲学的な思考を捨てないで欲しい、持っていて欲しい。その思考で世界を見て欲しい。そこにはきっと今までと違う豊かさがある事を感じられるだろう。

無駄な時間、無駄な思考、無駄な努力、無駄な趣味、その一つ一つがあなたの感性を豊かにしてくれる。

 あなたを豊かにするのは他人の不平不満や成功談や成功者の一側面からしか見ていない偏りきった価値観ではなく、あなた自身の感情であり、哲学なのだ。

 別に長い人生のほんの数分、無駄話に耳を傾けてもいいじゃないか。SNSを閉じて世界を感じてもいいじゃないか。

 

気楽にいこう。