呪術廻戦の最新247話までの内容を含みます。
未読の方はご注意ください。
① 結論
結論から言って五条悟は復活しない。
根拠は以下の3つである。
- 美しい死にざま
- 肉体の分断
- 髙羽退場
② 美しい死に様
五条悟の死は漫画史上、最も美しい死に様だったと言っても過言ではない。
あしたのジョーの矢吹丈、ワンピースのエースなど、歴史に残る他作品の伝説的な散り際と遜色ない。むしろそれらを凌駕するほど美しい死に様だったと筆者は思っている。
想像してほしい。あれほど美しい死に様が描かれて復活するだろうか?
それはあまりにも野暮ではないだろうか。
作者は王道に向き合うことを意識して描いているそうだが、その立場に則ればここからの復活などあり得ないだろう。
髙羽VS羂索戦が、ボボボーボ・ボーボボを意識していることから、そのオマージュとして復活するのではないかと巷では言われているが、オマージュとは作者の匙加減でいくらでも変わるし、そもそも呪術廻戦のオマージュは表現方法に採用されている。
いい例が髙羽VS羂索の幽遊白書のラストシーンのオマージュだろう。他にも遊戯王やBLEACH、などのオマージュも数多いが全て物語の展開ではなく、物語の見せ場や表現に使われている。
この事から呪術廻戦におけるオマージュとは、物語の展開ではなく表現にしか使われていないことが分かるだろう。
従って、他作品のオマージュが多いから五条悟が復活するという可能性は低いし、作者の王道と向き合うという姿勢からも復活する可能性は低いだろう。
③ 肉体の分断
反転術式での治癒は頭部と胴体が分断されるとできないことが明らかになった。
これ自体は、宿儺VS五条戦で初めて領域勝負が繰り広げられた際に、YouTubeの方で考察していた。
反転術式は頭で回しているため、頭で作った正のエネルギーを胴体に流せなくなるためだが、当然逆もしかりで、腹で練った呪力を頭部へ流すことができなくなると、頭で呪力を正のエネルギーに変えることができないので治癒できない。つまり一方通行ではないということだ。
つまり、肉体が両断された今、自力での復活は不可能ということである。
そして、ここまで真っ二つにされて完全に死んだ人間を反転術式で治癒していた描写は作中に存在しない。唯一できるとしたら宿儺だろう。
少年院で心臓無しで生きていたし、少年院から高専へ搬送されて復活するまで確実に数時間は経っているだろう事から、宿儺なら臓器がない状態で、死後数時間経っても復活させることができる。
しかし、敵である宿儺がそんなことをするわけないので五条悟は復活しない。できないだろう。
④ 髙羽の退場
これまで五条が復活しない理由を述べてきたが、それでもわずかに復活する可能性があったのは髙羽がいたからである。
彼の術式は事象の創造と具現化に加えて魂を共鳴させるので、同じ空間にいる人間の感情や発想も具現化できてしまう。髙羽がいれば五条悟ですら復活しうるのだ。
しかし、髙羽は羂索戦で退場してしまった。生きているか死んでいるかは微妙なラインだが、死に装束を身にまとい、羂索と今生の別れを言っていたことから死んでいると考えていいだろう。少なくとも人外魔境新宿決戦が終わるまでは退場と考えていいだろう。
つまり、髙羽を使った復活説というのは潰えたわけだ。
⑤ 社会の歪
そもそもこの五条悟復活説は、
「死ぬ時に宿儺について語りすぎ!」
「死ぬ時に学生に向けた言葉がない!」
「五条の勝ちだ!からなんで死んでるのよ!作者都合やん!」
といった意見が非常に多い。
snsや考察チャンネルのコメントを見ると殆どこのような内容である。
これは、明確な根拠があるわけではなく、
「五条の死を受け入れられない」
「自分の思っている五条先生じゃない」
などが根底にある事が分かる。
これらは「自分の価値観、解釈と違うから」という言葉でまとめる事ができる。
要は、自分の五条悟像は、「生徒を想い、いつでもヘラヘラしながら相手を圧倒する最強の先生」というものがまず根底にあり、しかし描かれたのは強者として宿儺を満足させられなかったものの自分は満足したということ、そして学生時代の青春を振り返ってるものだった。
それが自分の思う五条悟像ではないから、ヘイトが溜まっているのだ。
しかし、きちんと作品を読んでいれば五条の最も大事なものは学生時代というのは分かるはずだ。
わざわざ単行本2巻分使って描かれたものだし、五条は度々、「若人から青春を奪うことは許されない」と口にしている。
この事から五条の大事なものが学生時代というのは明白である。
想像して欲しい。自分が死ぬ際に直接的な血縁もない人間の事を考えるだろうか?
むしろ、自分の家族や自分の中で最も大切な思い出、後悔、未練などを思い返すだろう。
そして五条は最強故に孤独になってしまった。その孤独を埋めてくれたのが宿儺だった。
言わば五条は最強という呪いにかかってしまっていたと言える。五条は最後、宿儺という圧倒的な強者に孤独を埋めてもらって死ぬ事ができた。つまり、呪いが解けたのだ。
つまり、五条にとって最も苦しく最も心残りだったものは宿儺によって埋まったのだ。
そして人は死ぬ間際、思い返すのは最も大事な思い出、最も未練や後悔の残る事柄である。
そしてそれらは全て学生時代に詰め込まれている。つまり、死の間際に生徒の事を思い出さないのは何も不自然な事ではないのだ。
そして五条悟の本質は戦闘狂である。
学生時代に、五条悟が夏油を孤独にさせたのも五条が戦闘狂であった事が原因の1つである。
五条は反転術式を会得した後、自身の可能性が広がるのを楽しんでいた。瞬間移動や術式の常時発動など、自分がどんどん強くなるのが楽しくなり、夏油の精神が疲弊している事を気づかず、そればかりか夏油の好物を間違えていた。つまり、それほど当時の五条は他人より自分の戦闘欲を満たす事に囚われていたのだ。
それが五条悟の本質だと言えるだろう。
つまり、五条の死に際で描かれた全ては学生時代の時に全て描かれているのだ。
⑤ 歪み
このように死に際で描かれたものは全て学生時代に描かれている。つまり、最初に述べた五条悟復活説の根っこの意見は全て、「自分の解釈違いによるヘイト」である事が分かったと思う。
そしてこれらは昨今のネット社会で毎日目にする。
極端な例を上げれば
- 同じ会社の女性に「綺麗ですね」という言葉がセクハラとなる。
- 露出の高い服を着るとオジサンからエロい目で見られる。
- 昨今のLGBTQ問題も似たような事例はいくらでもあるだろう。
- 最近では、ペットを貨物ではなく乗客席に乗せようなどもいったものもある。
こういった「自分の解釈、価値観と違うものを徹底的に叩く」というのは、もはや弱者を装った暴力である。
先程の例で言えば、「綺麗だね」などは単に褒め言葉だろう。それを「性的な目で見てるからそんな言葉出てくるんだ」などと言われたら何も言えなくなってしまう。
逆に問いたい。間宮祥太朗や新真剣佑などに同じ言葉を言われたら、同じように不快感を持つのか?
違うだろう。単に気に入らない上司、気持ち悪いオジサンから言われたから気持ち悪く感じているのだろう。
ペット問題でもそうだ。
今回の飛行機事故のような状態でペットが乗客席にいた場合どうなるか?
- マイクを使ってもCAの声は届きにくくなり
- 暴れ回るペットが沢山いたら人命が危ぶまれる
- 仮にそんな事故が無かったとしても例えば隣の席の人に噛み付く
- 他人の手荷物を漁ってしまう
- あるいは糞尿がつく
- ノミやシラミなどの寄生虫を蔓延するなど
様々な問題が起きるのは目に見えている。
そういった場合、飼い主は責任を取るのか?
取らないだろう。
こういった時に声高にヘイトを叫ぶ人間にそこまでの思慮があるわけない。あるならそもそも叫ばないからだ。
そしてそういう人間は自分が被害者になる事など一切考えていない。蚊帳の外にしか考えていないから簡単に無茶なヘイトを叫ぶのだ。
LGBTQなどもそうだ。確かに差別はいけない事だが、だからといって何もかも制限を取っ払うのは犯罪が横行する事は目に見えている。
今でも男性器のついた自称LGBTQが女性トイレに入っている事が問題となり、逮捕されている。
これは女性に対する明確な人権侵害であるが、LGBTQなどが可視化できない以上、明確な線引きが難しい。であるならばその線引きは明確なものでするしかない。つまり、体の性差だ。
それしかないのだ。
しかし、昨今のこういった問題は寛容さと多様性の盾を振りかざした暴力である。
つまり、LGBTQやペット問題に反対意見を述べようものなら、偏見者、差別者のレッテルを貼られ社会的に制裁されてしまうのだ。
そのため、真っ当な意見でもそれが寛容さや多様性と相反するものならば、叩かれて反対意見を持つことすら許されない風潮になっている。
これは極めて恐ろしい事である。
寛容さ、多様性を盾にすればどのような無法もまかり通るという事である。
その先にあるのは弱者にたいする暴力と多くの人間の人権侵害である。
こういった事の背景には想像力の欠如が原因の一つである。
例えば先程の「綺麗だね」と言った発言がセクハラにあたる事も、「この人は普通に褒めてくれてるんだな」と受け取れば全く問題ない。
他にも
「嫌な事言われたな」
「でも、この人はこう思って言ってきたのかもしれない」
「そしたらこの人を責めるわけにはいかないな」
というように、想像力を働かせればヘイトは落ち着くはずだ。
筆者はなかなか子供を授からなかった。3年間不妊治療をしていたがそれでも授からず諦めていた。そこから数年後に奇跡的に自然妊娠する事ができたが、子供を持つと子供を授からない辛さを知っていても「子供つくらないの?」と言ってしまいそうになる。
それほど子供が生まれると価値観や考え方が全く変わる。
しかし、なんの想像力も働かななければ「何でそんなこと言うの?欲しくない人や授からない人もいるのに」と思ってしまうだろう。
だが、例えば「そんなに良いことなのかな」「そんなに言ってしまうことなのかな」など、想像力が働けば多少は人を憎む気持ちも抑えられる。
もし、「嫌な事を言われたから、この人の価値観は古い、嫌なやつ」で終わってしまうと分断しかない。
しかし、そこで「言った側の気持ちや事情を考える事」ができれば「私はそんな事を言われたら傷ついてしまいます、でも何か言ってしまう事情があるんですね、そんなにいいものですか?」など、自分の価値観のアップグレードにも繋がるし、以降嫌な事を言われる事も減らすこともできる。
要は今は、「嫌な事を言われたら言ったやつが100%悪い」
「寛容さと多様性に反する事を言うやつは間違ってる」
「寛容さと多様性を盾にすれば無茶なワガママも通る、反対意見を言う奴は価値観が古い」
などの思想が根底に蔓延っている。
だから自分の価値観と違う事を目の当たりにしたら極めて強い言葉で叩きまくるのだ。
これらは本当に恐ろしい事である。
つまり議論が成立しないのだ。議論しようにも反対意見を言うと差別者だと言われて叩かれるし、自分は重い話をできるほどの関係性があると思って喋った事も相手が「嫌な事を言われたら言った奴が100%悪い」という思想だと、その時点で敵にされてしまう。
昨今はこのように言語化すると恐ろしい事がまかり通っていることが極めて多い。
五条悟復活説からだいぶ話が逸れてしまったが、このようなヘイト至上主義が復活説から垣間見えるので記事にさせてもらった。