spriteの考察日誌

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配慮

 

配慮とはなんだろうか?

相手に優しくするのも配慮。厳しくするのも配慮。我慢するのも配慮。

相手に優しくしても「八方美人」と言われることもあるし、厳しくしても「余計なお世話」と言われるし、我慢しても「あなたも何か主張ないの?」と言われる。

 

気遣うとはなんだろうか?

相手を想ってアドバイスをすることも気遣い。相手の話をただ肯定することも気遣い。何もしないことも気遣い。

 

受け手によって形が変わる「配慮」や「気遣い」とはなんだろうか。

元々はお互いが”気遣い合う”ことだったんだと思う。何らかのアドバイスをされた時に嫌な気持ちになったとしたら、アドバイスをした人は悪者になるのだろうか?

 

近頃、腫れ物を触るような距離感で、嫌われない為には傷つけないようにしないといけなくて、傷つけない為にはセンシティブな話はしちゃダメだし、聞いちゃダメ。という距離感や対応しか求められてないし、しちゃダメになっている。

だから踏み込んだ話をすると嫌われてしまう。でも、踏み込んだ関係性で"気遣い合う"事をしていないと、苦しい状況になった時に余計に苦しむし乗り越えられないと思う。

一体いつまで良い人ぶろうとするのだろうか?

受け取り手の主観で決まる事なのに、いつまで受け取り手を慮るのだろうか?

自分の中で最大限慮っていれば、あとは嫌われたり文句を言われたりしても仕方ないのである。

慮られた側も相手を慮っていれば、そうそう不満や怒りを持つ事はないはずだ。だが、今では片方の気遣いしか求められていない。それでは不満を言った者勝ちとなる。

 

俺は配慮が足りないのか?

配慮し過ぎてるのか?

その判断は誰がするのか?

結局、自分の主観の中で最大限慮るしかない。

慮られたものは相手を慮る。

これが本当の配慮だが、現代では実感するのは極めて難しいだろう。

 

言葉は毒にも薬もなる。

ある人にとっては毒でも、別の人にとっては薬となる。

大勢の人にとっては薬でも、少数の人にとっては毒となる。

それも受け取り方次第なのだ。

だからこそ、発信者は相手方を最大限に慮らなければならないし、受け取り手は発信者の発言に伴う責任や勇気や愛情や気遣いを慮らなければならない。

今では”双方”が成り立っていない。発信者と消費者という枠組みしかない。

受け取り手は、ただ自分の快不快で発信者とその発言をジャッジする消費者なのだ。

この「発信者はこういう意図があるのかもしれない」とか「こういう言い回しをするという事は、こういう気遣いをしているんだな」という慮りが、受け取り手にはなくなってきているのだ。

だから一方的に被害者面をする。自分も意図せず人を傷つける発信者になる可能性もあるというのに。