宿儺と裏梅、まるで親子のような関係性。
最終巻のエピローグで描かれた2人の過去はわずか4ページ。しかし、それでだけで十分だった。
「宿儺様は何故、私の近くにいても冷たくならないのですか?」
「………クハ、それはお前も同じだろう裏梅。俺のそばにいて冷たくならなかったのは」
このやり取りだけでお互いがどれだけお互いを慮っているか伝わる。
(引用:呪術廻戦/著者芥見下々)
2人とも自身の生まれつきの性質によって人から隔たれてきた。その隔たりがない者同士が出会えた。恐らくこれ以上の幸福はないだろう。
「何か物語があり、それを語れる誰かがいる。それだけで人生、捨てたもんじゃない」
確か、路上のソリストという映画で出てきたセリフだが、幸福とは何も結婚したり、子供が生まれたり、金持ちになったりする事だけではない。
実は自己開示には麻薬に近い快楽効果があるそうだ。つまり、自分の話を聞いてくれる誰かがいるだけで人は幸せを感じられるのだ。そのサービスの1つがキャバクラやホストクラブ、カウンセリングだろう。
宿儺と裏梅は親子ではないし、かといって恋人関係でもない。今日あったことを話すような間柄でもないだろう。(性格的に)
しかし、自分の心情を吐露できる相手、吐露しても拒絶されない相手、少なくとも自分自身が相手をそう思える相手と出会えている事が重要なのだ。
下記の記事でも書いてあるが、連帯感は幸福を感じる重要な要素だ。自分が拒絶されない、受け入れてもらえる、相談できる、必要とされる、そういった安心感が幸福であったりする。
一方で、結婚していても、相談できず、自己開示できず、拒絶に怯え、怒りを連想してしまい、問題が解決できず、尊重されないと感じたら孤独になるのだ。物理的に人に囲まれている分、感じる孤独は大きなものだろう。
「家族がいるのにどうして自殺したんでしょう...」
「家族がいても孤独な人は孤独だよ」
アントキノイノチという映画で原田泰造が言っていた言葉だが、仕事があり、家族もあり、家もあるという一見幸福そうに見える人が自殺してしまうのはここに原因がある。幸福とは物理的なものではない。金があり、家があり、家族がいて、生活に対する不安感はない。しかし、そこに居場所はないのだ。
「相談しても逆ギレされる」「何かを伝えると泣かれてしまう」「心を開いたのに拒絶される」など、人によって形は違うだろうが、自分の身近にジャイアンのような存在がいると自分の居場所がなくなってしまう。そのジャイアンは結婚相手だったり、職場の人だったり、親だったりする。そのように精神的な居場所を失った人が病んでいくのだ。物理的に豊かであったり、人に囲まれているかは関係ないのだ。
自分が拒絶されない、相談できる、相談しても逆ギレされたり泣かれたりしない、尊重してもらえる、向き合ってもらえる、それらが安心感となり幸福につながる。それらを手っ取り早く得られるのが結婚なのだ。みな誰かに理解してもらいたいし、必要とされたいし、手助けしたい。その関係性が本来の夫婦なのだ。
しかし、やれ年収だ、容姿だ、年齢だ、学歴だ、と注文を付けるうちに本当に大事なものを見失ってしまった。本当は結婚などしなくていい、できなくてもいい。たった一人、分かり合える人、許し合える人、向き合える人、尊重し合える人がいれば幸せになれるのだ。そしてそれは踏み込んだ関係にならなければ絶対に分からない。
(引用:荒川アンダーザブリッジ/著者中村光)
本当の自分をさらけ出せる相手、本当の自分を拒絶されない相手、それが得られなかった宿儺は呪いに落ちたし、呪いに落ちた宿儺だからこそ、存在しているだけで周囲の人間を殺してしまう裏梅に寄り添えた。
宿儺と裏梅は親子ではないし、夫婦でもないし、家族でもない。しかし、お互いがお互いを拒絶しないと思えているから死してなお共にいるのだ。2人とも見つけているのだ。距離の要らないもう一人を。
もしかすると五条や鹿紫雲の孤独はこれかもしれない。物理的に人に囲まれていながら、自分の事を理解してもらえず、自己開示しても意味がないと感じていたから孤独を感じていたのだろう。「花に話しても意味がないだろ?」と。
(引用:呪術廻戦/著者芥見下々)
そういう意味では五条や鹿紫雲は最後まで孤独だった。2人とも宿儺という強者と戦えた事で全力を出せて、自分の欲求を満たす事はできた。しかし、自分が本当に理解されたい人から最後まで理解して貰えなかった。
高専のメンツには最後まで五条悟を演じなければならず、五条悟を求められ、五条悟の物語を共有する事ができなかった。本気を出せずに死ぬという最期こそ回避できたが、宿儺にとっての裏梅のような関係性の人間は得られなかった。あの夏油傑ですら死んだ後でしか関係性を深め合えなかったのだ。五条や鹿紫雲は距離の要らないもう一人を見つけることができなかったのだ。
その点、宿儺と裏梅は既に得ている。お互いがお互いを拒絶し合わない相手として、かけがえのない人間に出会えている。血の繋がりはないし、本当の親子のような馴れ合いはない。しかし、そこには愛がある。
宿儺は虐げられてきた過去により愛に生きる事ができなかった。そこに後悔はあるだろう。かといってやり直せるなら真っ当な道を歩むかと言われたらそうはならないと思う。
何度繰り返しても、きっと同じ道を歩むだろう。彼は何度繰り返しても呪いの王両面宿儺になるだろう。呪いの王だからこそ歩めた人生、成れた人間になっている。それを捨てたら宿儺じゃない。呪いの王だからこそ裏梅の側にいても冷たくならなかったのだ。呪いの王じゃなければ裏梅は救われなかっただろう。
だからきっと宿儺の人生はこれで良かったのだ。呪いの王としての人生が正解だったのだ。
(引用:ラスト・オブ・アス/HBO)
呪いの王として生きて死んだが、何も得られなかったわけではない。差別され虐げられて何も得られなかったわけじゃない。そこには裏梅や万という愛してくれた人がいたのだ。
確かにその愛は受け取ってなかったかもしれない。だが、それでも自己開示したり、心情を吐露できる相手が居たという事が宿儺にとって唯一の、そして最高の幸福なのだと思う。
親子ではないが親子のような関係性。どこか既視感があると思ったらこの2人にそっくりなのだ。
宿儺自身が言ってるように、呪いの王としての人生が失敗だったのは理解している。だが、呪いの王だから得られたもの、成し得たものもあり、そこにはプライドを持っている。だから呪いの王としての人生に後悔はない。
だが、別の生き方をしていたら裏梅や万はもっと幸福になれたかもしれない。そのわだかまりは抱えているのだろう。
だから次があれば生き方を変えてみるのもいいかもしれないと語っているのだ。「もし、次があれば」というのがいい。「俺には次はないかもしれない」と思っているところがいい。
宿儺や裏梅のような者達の心境は我々には理解できない。頭では分かるが共感する事は不可能だし、分かった風になるくらいだ。
愛に生きたいが自分の中に葛藤がある。憎悪という葛藤が。愛を受け入れるという事は、それまでの自分の人生を捨てるという事であり、虐げられた自分を自分自身で捨て去る事を意味する。だから素直になれない。
本当は愛したいのに心が素直にいかない。宿儺は生まれながらに異形の体で虐げられてきた。その不公平の中で自我を保つには自己の正当性を持つことが必要であり、そのために宿儺なりの美学を持つことが必要だったのだろう。
(引用:呪術廻戦/著者芥見下々)
我々、人間も不公平や不遇や不幸の中で、鬼にならないように、道を踏み外さないように生きていくには、自分なりの美学や哲学や信念や生き様を持つことが必要なのだろう。それらが人に深みをもたらす。
最近、優しいとか気遣いができるという人は、実はこの美学を持たない人が多い。何故なら彼らは、何不自由ない家に生まれ、両親と兄弟と一軒家に育ち、小中高大とそのまま進学していき、それなりの会社に勤め、収入を上げるために遮二無二頑張らずとも夜勤手当や休日出勤手当などで見た目の年収だけ上がり、休日は友人たちと過ごすという、幸せな人生を送っているからだ。
それが悪いわけではないが、そのように余裕のある暮らしをしているから人に優しくできているのであって、宿儺や裏梅のような環境にいたなら宿儺以上の呪いに落ちるだろう。本当に優しいのではなく、たまたま恵まれているから優しいに過ぎない。いわゆる「無知の幸福」というやつである。
苦労を知らないから。いや、苦労の中にいないから優しくできているにすぎない。そしてその優しさも、自分に不利益にならない範囲で優しくしていることが殆どだ。そのようなものに宿儺や裏梅のような境遇の人間と接しようなどという優しさはないだろう。つまるところ真に優しいわけではないのだ。
(引用:喧嘩稼業/著者木多康昭)
そんな中、宿儺を愛してくれる万という存在が現れはしたが、不公平の中を生き抜くために持ち続けてきた宿儺の美学が、宿儺の哲学が、宿儺の人生が、それを許さなかった。真っ当に生きることを許さなかったのだ。それもそうだろう。ここで真っ当な道を選んでしまったら今までの虐げられてきた人生はいったい何だったのかと思ってしまう。
ここで許されるなら今まで自分が不遇の中で持ち続けてきた美学や哲学が無に帰してしまう。なにより、今まで自分を虐げてきた世界を許さなければならなくなる。こちらは納得していないのに。納得できてないのに。世界を許さなければならない。それを飲み込むのは無理がある。筆者にも無理だろう。
だからこそ「もし、次があるなら生き方を変えてるみるのもいいかもしれない」と語っているのだろう。死んだことで、呪いの王として生きずに済んだから、呪いの王としての人生が正解だったという結論が消えてしまったから、真っ当に生きる道を選べるようになれたのだ。世界を許せるようになったのだ。
虎杖は宿儺という呪いを祓ったのではなく、宿儺の中にあった憎悪という呪いを祓ったのだ。「本当は自分を虐げてきた世界を許したい」しかし、「俺は何も取り戻してないのに、虐げてきた者達に納得できてないのに、許さなければならないなんて不公平だ!納得できない」という強烈なわだかまりが宿儺にはあった。それを虎杖は祓ったのだ。
だから生き方を変えてみようと宿儺に思わせることができた。次を生きる宿儺はきっといい人間に、いい父親になるだろう。片割れがいい祖父だったように。
(引用:ラスト・オブ・アス/HBO)